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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      越前の紙漉
 和紙生産の歴史は古く、律令時代から多くの国ぐにで産出することが制度化されており、『延喜式』によれば越前・若狭ともに中男作物として紙が課せられ、また年料別貢雑物として製紙材料の紙麻を貢納することになっていた。平安末期の大野郡牛原荘の文書目録には「紙工解状」「留守所文紙工事」とみえ、国衙に属する紙工がいたことが示されており(資1 「醍醐雑事記」巻一四・一五)、彼らは大野郡紙山保(美山町西河原・東河原・折立)あたりを中心に活動する紙工であったのかもしれない。また鎌倉初期の遠敷郡国富荘には紙漉が住んでいた(『続左丞抄』建保四年八月十七日付将軍家政所下文)。このように古代から中世の初めにかけて越前・若狭の各地で紙が造られていたのであるが、中世後期から現代にいたるまで高い評価を得ているのが、現在の今立町南部の不老・大滝・岩本・新在家・定友のいわゆる五箇の地を中心として生産される越前和紙である。
写真240 今立郡大滝社(今立町大滝)

写真240 今立郡大滝社(今立町大滝)

 その確実な古文書にみえる越前和紙の初見は長禄四年の南条郡河野浦の納所注文で、河野浦の刀・百姓は正月十八日に年賀のため荘園領主である府中総社に参上したさいに、神主から引出物として「大滝さつし」を隔年に与えられることになっている(「刀文書」『越前若狭古文書選』)。この紙は書写用に加工された「つくりかみ」で、当時高級紙の生産が大滝神郷を中心として確立されていたことが知られる。そしてその直後の文明年間(一四六九〜八七)以降、越前は鳥子・薄様・打曇など最高級雁皮紙類の産地として、京都や奈良の貴族・僧侶たちからにわかに注目されるところとなる。その背景には、朝倉氏の領国支配の安定と紙生産に携わった職人たちの技術の進歩があったものと思われる。そしてのちに「越前奉書」として有名になる高級楮紙も文献上は戦国期末に「奉書かミ」とみえ(「尋憲記」元亀四年正月二十七日条)、近世の製紙技術もこのころまでに確立していた。
 織豊期になると大滝神社の大滝掃部という人物が紙漉の元締めとされ、奉書紙の調達を命じられた(資6 三田村士郎家文書八・一〇号)。この大滝掃部が三田村家の紙業の祖とされ、慶長六年結城秀康から奉書紙職を安堵されて以降、三田村家は近世の五箇製紙業の中心として活躍するにいたる。
 なお、越前の紙の産地については今立郡大滝だけではなかった。天正二年八月には専修寺賢会がその知行地の坂井郡四十谷から紙二、三束を召していることがみえる(資4 勝授寺文書二〇号)。福井市の四十谷・田ノ谷・北楢原・南楢原は近世から最近まで和紙の産地として有名で(資3 大安寺文書三六号)、それが戦国期末までさかのぼりうることを賢会の書状は示している。このように大滝以外にも複数の小規模な紙生産を行なう在所もあり、越前国内で地域的な流通をみせていたものと想像される。



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