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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      近江商人の進出
 越前・若狭の隣国として、近江は中世後期大きな比重を占めた。まず湖西路は、越前・若狭から京都方面への求心的な流通経路にあたる。また海をもたない近江は、塩をはじめとする海産物のすべてを隣国から持ち込まなくてはならなかった。そして近江は畿内近国の先進地として惣村の発達などにより大きな民間需要をもち、近江商人は仕入れの場を求めて諸方に進出していった。
 敦賀郡にも近江商人たちが進出し、また府中を中心とする国中の商人衆や河野浦の舟も当地の海産物の買付けや輸送にあたった。近江商人たちは最初川舟を雇って商売していたらしいが、文亀二年五月朝倉貞景はこれを禁止した。しかし享禄二年までには近江の斤屋といわれる商人に雇われた舟が商売を行なって川舟座と競合し、朝倉氏は斤屋方の新儀を禁止したがそれはいっこうに止まず、戦国期の末までに斤屋は敦賀に根をおろして敦賀斤屋惣中という組織を作りあげた。また敦賀には別に河野屋という商人の惣もあり、これも川舟座と競合した。河野屋をはじめとして他の浦や津内の者も商売をしたため、川舟座の営業独占はなかなか成立しなかった。こうした商売上の争いが天文年間(一五三二〜五五)から多発し、しかもそれが魚や塩・合物をめぐってなされていることは、この時期の越前全体の水産業の発達と流通の増大をよく示している(資8 道川文書一〜九号)。
 以上のことから、敦賀郡の海産物の主な取引先の一つとして近江国の北部が考えられるが、戦国期の末には近江商人たちが獺谷道といわれる柳ケ瀬から刀根・池河内・獺河内を経由する山間交通路により敦賀郡の東浦へ塩を買付けにやってきている。そのころ朝倉氏は江北の浅井氏と連合して織田信長と対陣しており、元亀二年朝倉義景はその事情を調べさせてこれを認めた(資8 刀根春次郎家文書一五号)。
 また九里半街道を通る商品取引や輸送は、もと南北古賀・南市・今津など近江高島郡の商人・馬借たちがあたっていた。ところが湖東の野々川衆(保内商人)はこれに強引に参入しようとし対立抗争を引き起こし、享禄二年六角氏から商売を公認されている(資2 今堀日吉神社文書二〜七号)。こうした商人たちの扱った若狭から近江への主要商品が塩や合物であることは想像に難くなく、天正九年九月に近江国大溝城主織田信澄(信重)は、若狭の塩荷の輸送権を養父礒野員昌の居城の地であった新庄(滋賀県新旭町)と同様に今津へも安堵している(資2 川原林文書一号)。
 なお北陸道北端の越後国は苧を多く産出し、室町期には三条西家が苧課役を知行した。戦国期の三条西実隆の日記『実隆公記』には、越後の青苧を積んだ苧船が小浜に入港し、青苧が近江坂本・京都・摂津天王寺方面に送られたことがみえる(『実隆公記』大永三年八月六日条など)。こうした苧の輸送や商取引に小浜代官や坂本の問丸香取が関係した。特に坂本の香取は大商人として成長し、永禄十一年(一五六八)四月に一乗谷で元服した足利義昭の装束の調達にあたったり(『言継卿記』同年四月四〜十日条)、元亀元年四月の織田信長の越前侵攻について朝倉義景に注進するなど(「越州軍記」)、朝倉氏とも近い関係をもった。
 また宇治の茶師も戦国期越前で活動した。室町期に斯波氏は山城国宇治に朝日という名の茶園をもっていたといわれ(「僊林」)、それは京極の祝、山名の宇文字などと並んで宇治七名園とよばれた。朝倉氏も上等な茶を得るために、宇治の茶師堀家に毎年路銭二貫七〇〇文と返礼の綿二把を与えて宇治茶を納入させている(資2 田中忠三郎氏所蔵文書一・二号)。



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