目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      染物と紺屋
 染物は古代からさかんで、『延喜式』では越前の中男作物に紅花・茜・黄蘗皮といった染料がみえ、調には緋帛・橡帛・緑帛・黄帛など各種の染物がみられる(通1 四章二節二参照)。中世に最もよく行なわれたのは藍染であり、平安末期越前の大野郡牛原荘から醍醐寺に藍摺が貢納されることになっていた(『醍醐雑事記』巻一)。また若狭の遠敷郡国富荘では、かつて同荘が国衙領であったときに藍役を勤めていたといわれる(『続左丞抄』建保四年八月十七日付将軍家政所下文)。このように、平安末期から鎌倉期に越前・若狭の荘園・公領に対して藍が賦課されていた。坂井郡河口荘では済物として藍一六五俵が在家役として出されることになっており、同郡坪江郷では公事銭として煮藍代が課されている(「坪江上郷条々」「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)。
 右にみたように、中世前期から広く染料の藍の生産が行なわれていたようであるが、越前・若狭で紺屋が現われるのは中世後期に降る。紺屋は紺掻きともいい、藍甕で発酵させて作った藍汁で染色を行なう専門的な職人である。越前丹生郡の織田荘赤井谷の紺屋教善左衛門は永正十五年に丹生北郡の紺屋の領域的な支配権を、府中紺屋方へ毎年二〇疋(二〇〇文)ずつ納入するという条件のもとに、府中両人から認められている。地域の紺屋をまとめる有力な紺屋が成長しており、教善左衛門は配下の各紺屋から「かふと役銭」という役を徴収していた(資5 山岸長家文書一・二号)。「かふと」という語はよくわからないが、川舟の発着場といった意味が想定される。そうだとすると前述の木地・山衆たちの勤めた津料などと類似している。このように、丹生郡など府中近辺の紺屋の支配についても府中紺屋が大きな役割をもっていたことがわかる。府中両人はこうした府中町と深く結びついて、職人に対する独自の支配権を保持していた。
 そのほか今立郡大滝神郷付近や粟田部に紺屋や灰屋がいたことがみえ(資5 大滝神社文書九号)、大飯郡の三松東市場には「京紺屋」がみえるので、京都とつながりをもった紺屋が室町期に市場の近辺に住んでいたことがわかる(資9 中山寺文書一五号)。また藍甕に入れられる灰については、南条郡大切村の百姓たちが灰商売をしていたことがわかる(資6 前川三左衛門家保管文書一号)。
写真238 紺屋跡と確定される遺構(一乗谷朝倉氏遺跡)

写真238 紺屋跡と確定される遺構(一乗谷朝倉氏遺跡)

 一乗谷にも確実に紺屋が居住していた。朝倉氏滅亡後、北庄城下にもと一乗谷に住んでいた商工業者たちが移って形成された「一乗町」には一七人の紺屋からなる組合があった。天正十三年の段階では、彼らの惣名代は塚谷亀介・江富新九郎・高橋宗真入道の三人であった。当時の役銭は銭一〇貫文で、これを軽物座の長の橘屋に納入していた(資3 橘栄一郎家文書二八号)。一乗谷では町屋の建物のなかの奥の部分に大甕を整然と並べた遺構が確認されており、紺屋と推定されているものもある。



目次へ  前ページへ  次ページへ