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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      番匠大工と職人
 番匠大工は建築関係の諸職人を統率する重要な職人である。すでに中世前期から国衙や大寺社より給免田を与えられて保護されていたが、中世後期も同様で比較的よく史料にみえる。まず織田剣大明神寺社では享禄元年(一五二八)の収支記録が残っており、上野御大工と市場御大工の分米がそれぞれ五石とされ、鍛冶の分米は三石五斗だった。また土器・桧物職人も大工とよばれ、それぞれ四石・五石の分米を与えられていた(資5 劒神社文書三〇号)。そして室町期と推定されている「剣社古絵図」には、一ノ鳥居の参道の東側に大工の家が六軒並んで描かれており、門前に大工が住んでいた様子もうかがえる。また今立郡の大滝寺でもそのころ番匠大工給田一段が設定されており、毎年正月の年賀には番匠・桧皮師(屋根の上葺に桧皮を葺く職人)・鍛冶たちに惣中から銭一〇〇文ずつが与えられることになっていた(資6 大滝神社文書五・九号)。
写真237 剣社古絵図

写真237 剣社古絵図

 越知山大谷寺でも正月十三日の講堂の行(一年の豊作を祈る仏事)や十月十四日の泰澄大師講のときに、番匠大工・桧皮師・鍛冶たちに餅が配られることになっていた(資5 越知神社文書二六号)。若狭の遠敷郡羽賀寺でも毎年正月十七日に番匠大工・小工・桧皮大工たちが小者を引き連れて年賀に参上し、引出物を賜わることになっていた(資9 羽賀寺文書二七号)。さらに吉田郡永平寺では戦国期に門前大工がみえ、永正六年(一五〇九)の定書では、門前の行者・百姓・番匠らが他家の被官になったり他家の被官人が門前に住むことが禁止されている。これら永平寺の行者・番匠・鍛冶たちにも給田や山林・下地が与えられているが、これを売買することも堅く禁止されていた(資4 永平寺文書一一・一二号)。このように各有力寺社は、その管理維持に必須の番匠大工をはじめとする職人たちを制度的に結びつけて確保した。
 また、越前の吉田郡河合荘や若狭の遠敷郡賀茂(宮川)荘では番匠大工の給田や除分が設定され(資4 龍澤寺文書二二号、資9 前野治良太夫家文書四号)、丹生郡志津荘や南条郡今庄地頭方では大工職が補任された(資5 内藤源太郎家文書一〜三号、資6 島崎文四郎家文書一〜三号)。また若狭では古くからの国の中心である遠敷と港湾の小浜に惣大工の称がみえ、寺社の造営などにあたった(資14 「建築の造営と大工」参照)。
 さて材木の生産にあたった職人として杣工や大鋸引などがいる。杣工は材木の伐採や輸送に従事し古くからそうよばれた。大鋸は室町期に導入された新しい製材用の縦引鋸で、十五世紀初めころには使われている。文安元年(一四四四)に遠敷郡明通寺の食堂の橋を造営したさいに杣手銭四貫九二三文と大鋸引手間料二貫八八〇文が支出されており、大鋸により大きな橋板材が挽かれて製材された(資9 明通寺文書五六号)。このころから若狭でも急速に大鋸が利用されてきたものとみられ、手間賃を稼ぐ大鋸引職人が確認される。そして戦国期の越前では、前述の剣大明神寺社では杣工・大鋸引に給米各五斗が与えられることになっていた。
 朝倉氏の城下町一乗谷にも多数の礎石建物の遺構があり、武家屋敷・寺院そして朝倉館のように大規模なものもあって、高度な建築技術を扱った大工たちが活躍したものと考えられる。出土品では金槌や和釘・鑿・錐などがある。板材の加工の跡には縦引鋸や台鉋などを使用したものがみえ、戦国期の技術革新の様子を物語っている。朝倉氏に関係した大工やその組織については今のところ詳らかでないが、府中・北庄・一乗谷といった都市部における建築需要の増大にともない、建築関係の職人たちが寺社本所を離れて自立することも可能になったものと思われ、一乗谷にも番匠大工がいた可能性を想定することもできるかもしれない。



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