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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      鍛冶と鋳物師
 金属製品のうち鉄と銅は、広い用途をもつ基本的材料である。金属の成形には鍛造と鋳造があり、これに従事した職人を鍛冶と鋳物師といった。中世の刀剣や梵鐘・鰐口などが美術工芸品として注目されている。吉田郡藤島の友重・千代鶴国安・国行など、鎌倉末から南北朝期に越前で活躍した刀工が有名である。戦国期には美濃系の刀工が移住し、その作品で「越前一乗住兼則」という銘文が刻まれた脇指も現存している。
 朝倉氏の城下町一乗谷からも、鍛造の鉄製工具や鋳物の鉄鍋が多数出土している。鉄製品は消耗も早く、補修や研ぎが必要でそうした職人に対する需要もあった。また一乗谷の町屋のなかには炉・作業場の跡と坩堝、鞴の羽口、鉱滓などが出土しているものがあり、鉄や銅の鋳造が行なわれていたことが確認される。一乗谷南陽寺跡からは梵鐘の鋳型の一部が出土しており、現場で鋳造されていたことがわかった。
 こうした職人のうち鍛冶は、中世前期に給免田を与えられて国衙や大寺社に属した。先述したように中世後期でも、越知山大谷寺・織田剣大明神寺社・大滝寺など地方有力寺社に鍛冶職人が属していたことが知られる。そして郷村における金属製品に対する需要の高まりによって、戦国期になると在地にも鍛冶が住むようになった例が知られる。若狭の三方郡山東郷では、ある時期に鍛冶が屋敷を構えていたことがわかる(資8 田辺半太夫家文書五号)。これらの鍛冶職人たちは寺社本所の支配下から次第に独立していき、郡単位の惣を形成するようになった。越前の大野郡では大永年間(一五二一〜二八)から天文初年にかけて大野郡代だった朝倉景高が大野鍛冶中へ下知状を出していることが知られ、朝倉義景はその下知状の先例により大野郡鍛冶中を安堵している。そして天正三年大野郡に金森長近と原政茂が入部すると両者の安堵を受け、大野郡鍛冶座惣中に断わりなく新儀に業界に参加することと鎌・鍬・釘やその他の諸道具を振り売りすることを停止し、これを惣中として支配することが認められた(資7 てっぽうや文書一〜三号)。このように、郡内の庶民との直接取引を禁止することが鍛冶座の営業を安堵することになっているところに、広範な需要が生じていることがうかがえる。
 鋳物師については給免田を与えられた例も少なく、越前・若狭については中世前期の在地の鋳物師の状況は詳らかでない。しかし室町期以降になると、若狭では応永四年(一三九七)の小浜八幡宮の鐘銘に、「下金屋来阿」という遠敷郡金屋の鋳物師の名がみえている(『日本古鐘銘集成』)。そののち若狭では鋳物師大工が一人、細工所が一か所という状況のなかで、この鋳物師大工の「遠敷小南六郎権守行信」は嘉吉三年(一四四三)五月に突鐘(撞鐘)を鋳て東寺に進上している(ヌ函二九五、モ函二〇八)。この遠敷金屋鋳物師は戦国期になると鋳物師の惣中を形成して一国の金屋職をもっており、武田信豊は他国鋳物師の参入を停止して金屋惣中に安堵し、のちに武田義統も安堵した(資9 芝田孫左衛門家文書五・六号)。この金屋の近辺の万徳寺に畠地を寄進した小南左衛門次郎・金屋次郎衛門・芝田貞秀・同元正などは、この金屋惣中の構成員であろう(資9 萬徳寺文書三号)。その作品として、「遠敷郡小南金屋」作の長禄四年(一四六〇)の銘を記す梵鐘が秋田県鹿角市大日堂に残されている(『日本古鐘銘集成』)。また越前では、大永三年に新原住藤原朝臣彦左衛門吉久という大工が丹生郡小樟の看景寺梵鐘を鋳造するなど(『松岡町史』)、吉田郡芝原の鋳物師が活動している。朝倉氏滅亡後の天正八年には柴田勝家が北庄の鋳物師に三か条の定書を出し、鋳物見物のため諸人が付近を徘徊することを停止するとともに一切の諸役を免除し、一人宛て一五間四方の屋敷地を与えている。この内容は、そののち丹羽長秀・堀秀政など歴代北庄城主により継承される(資2 松村文書一・二号、成簣堂文庫所蔵文書七号)。堀秀政の定書によれば、北庄鋳物師惣中は一〇人の鋳物師からなっていた。こうした文書を伝えた松村家はもと今立郡の五分市に住んでいたといわれ、彼らは柴田勝家から屋敷地を与えられ北庄に招致されたものであろうと考えられる。



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