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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      越前焼の生産
写真235 越前焼壷(十六世紀)

写真235 越前焼壷(十六世紀)

 越前焼という名称は、現在の丹生郡織田町・宮崎村および武生市の一部に所在した窯で生産された中世陶器に対して近年与えられたもので、基本的に無釉の焼締陶器であるが、大甕や壷などに肩から自然釉が流れて独特の美しさをもったものがある。近世でも平等村(織田町平等)でその伝統を継いで焼かれており、平等焼・織田焼などといわれた。中世の窯跡の分布も前述の三市町村にまたがっているが、現在の平等集落を中心として半径二、三キロメートルほどの狭いところに集中している。越前焼は平安末期から戦国期まで中世を通じて連綿と生産が続けられた。鎌倉期には瓶子・経筒など宗教色の強いものも焼いていたが、室町期には壷・甕・擂鉢という器種構成が定着した。窯の集中している平等村は中世には織田剣大明神の神領で、社領として最も重要な日御供領や修理領があった。また社家に対しては山代二貫五〇〇文と、一度窯焚きするごとに九〇〇文の口銭を納めていた(資5 劒神社文書一三・三〇号)。
 これまで戦国期の越前焼の窯の様子についてはよく知られていなかったが、最近では学術的な発掘調査も行なわれ、数基の窯の全容が明らかにされた。平等地区の西端部に近い岳ノ谷窯跡郡の一部が調査され、織豊期ころと推定される窯も完全な状態で出土した。一群の窯は山の斜面に並んでおり、その前面は広場になっている。窯は地山を掘って焼成室を造り、その前部に切り石積みの燃焼室を設けている。焼成室は二一メートル以上の奥行きがあり、三〇度以上の急勾配をつけて燃焼を助けている。焼成室は手前の広くふくれた部分と奥の狭くすぼまった部分に分けることができ、手前に焼き締りの良さが要求される壷・甕類を置き、奥に擂鉢を置いて熱を効率的に使っている。研究者の推定によれば、一度に中甕と壷が各六〇個、そして擂鉢が一二〇〇個以上も焼きあがるという。そして一つの窯は何度か窯焼きした結果熱で内部の天井部が焼損すると、それを削って床面をかさ上げして同じ場所に造り直され、五回以上も更新して利用された。
 このように、それまでの越前焼の歴史に例をみない大規模でかつ規格化された生産が行なわれていたことが実証された。こうした越前焼の量産体制がいつごろから行なわれるようになったのかは今のところはっきりしないが、遅くとも戦国期末までには確立していたものと思われる。それは実態のよくわからない中世の諸産業の生産の場を具体的に示すものであり、また中世後期の越前における産業の発展の典型例といえる。



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