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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      酒造と麹座
 中世の越前・若狭における酒造の実態については詳しくはわからないが、中世後期になると地方酒造業的なものも想定しうるようになる。若狭では永享十年に遠敷郡国富荘に酒屋があったことがみえ、そこには少なくとも酒三斗五升が貯えられていた(『壬生家文書』三三九号)。そして越前では、弘治三年(一五五七)に朝倉義景は足羽郡木田の橘屋に酒売買座を安堵している(資3 橘栄一郎家文書二号)。一乗谷ではいくつかの越前焼の甕を土間に埋めて据えた町屋がみつかっている。甕は大量の液体を容れたものと思われ、いくつかは酒屋だったのかもしれない。このように都市部で酒が商品として広く売買されていたことがうかがえ、その背景として酒造の発展があったものと理解される。
 また地方酒として名を高めたものもあり、朝倉孝景(英林)のときに越前に下向したことのある一条兼良の作とされる『尺素往来』には「越州豊原・賀州宮腰」とあり、豊原寺の僧房酒が加賀宮腰の菊酒と並び称されている。若狭では濃厚で味の変わらない若狭生酒が有名で、天文八年(一五三九)に遣明使策彦周良はこの酒を携えて入明したといい、そのほか粟屋勝久の居城の地である国吉の水で造った国吉酒も美酒として後世有名になった(「若狭郡県志」)。
 実態としては当時、酒や味噌などが広く自給自足的に作られていた可能性もある。その場合でも当時麹の割合が比較的高かったので、室で麹を作る麹屋の存在は重要だった。麹屋はかなりたくさん在地にあったと思われ、大永三年(一五二三)に三方郡の日向浦にも麹屋があったことが知られる(資8 渡辺六郎右衛門家文書二二号)。
 支配者は麹を支配することを通じて広く生産者を把握しようとした。越前では丹生郡大谷寺が近隣の室衆(麹屋)を支配して上分(税)を徴収しており、室衆たちは毎年十一月の越知山天台大師講の初日に麹の初物として神酒を進上した(資5 越知神社文書二六・四〇号)。織豊期の若狭では、三方郡山東郷の麹座を歴代領主が安堵しており、最終的に佐田村の土豪田辺半太夫がその特権を入手している(資8 田辺半太夫家文書一一〜一四号)。そして慶長十一年(一六〇六)になると若狭の国中の麹座の支配が小浜の豪商組屋・木下両氏に命じられ、広域的な麹座支配 の体制が整えられていった(資9 組屋文書一八号)。



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