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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      製塩と網漁
 越前・若狭では古くから製塩業が発達し、特に若狭の調塩は有名だった(通1 四章二節二参照)。また若狭では中世前期から漁業や製塩の発達の様子をあとづけることができる(一章六節六参照)。南北朝期以降、海運の機能が敦賀や小浜に集中するにともない漁村としての性格を強めていた各浦では、そうした中世前期からの伝統を受け継いで生産の発展があったものと考えられる。

表51 若狭の魚介類の種類と単価

表51 若狭の魚介類の種類と単価


表52 越前・若狭の浦々の海産物年貢

表52 越前・若狭の浦々の海産物年貢
 製塩は中世後期も越前・若狭の多くの浜・浦で行なわれたが、具体的な様子についてはよくわからない。三方郡の馬背には塩釜があり、その塩汲浜年貢をその北にある丹生浦に納めていた(資8 丹生区有文書二号)。また遠敷郡では塩浜は「昇」という単位で売買され、その位置が「在所は鼻のわき八昇目なり」などと示された(資9 妙楽寺文書三号)。こうしたことからも塩の生産がある程度安定したものだったことがうかがえる。
 若狭では戦国期には網や漁場を管理・運営した漁村の惣中が形成されており、大網・枕網・大戸網といった網の名称を冠したものがみられる。このように網の種類が分化していることからみても、網漁が相当発展していたことが知られ、漁種・漁獲量は増えていった。一例として十六世紀中ころに三方郡御賀尾浦(三方町神子)などで獲れた魚介類を挙げると表51のようになる。これらのうち*を付したものは「美物」と称されて都の武家や公家から珍重され、若狭武田氏も将軍家への初物や歳暮などのために「美物」を浦から調達した。その代価は一年分を合計して、年貢・浦役銭から差し引かれている(資8 大音正和家文書一九五・一九六号)。
 網が惣中持ちになったこともあって、漁村間での網場相論が多発するようになった。三方郡の常神半島の東側には何か所も良好な網場があり、これをめぐって日向浦と早瀬浦がたびたび争った(資8 渡辺六郎右衛門家文書一号)。また早瀬と久々子の間には伊切山という小さな半島状の山があり、その付近の磯海は良好な漁場だった。この山は早瀬浦に属していたが、永享八年(一四三六)に久々子村の百姓たちはこの山や海は久々子の開発と号して鮪網を立てた。これに対して早瀬浦百姓は「磯海は陸地に就きて進退せしむ段、浦々の大法」といって抗議したが、在京領主の臨川寺・天竜寺の裁判により結局早瀬浦に裁許され、久々子村の押し立てた鮪網と魚見は破壊された(資8 上野山九十九家文書一号)。この鮪網とは詳らかでないが、魚群を監視するための魚見台があることからみて定置網の一種であろう。前後の経緯からみて、そうした網漁は十三世紀末ころから行なわれるようになったものと思われる。文亀二年(一五〇二)に早瀬と久々子は久々子湖の網場をめぐっても争っている。最初武田氏の裁判により久々子方に網場の権利が認められたが、両方の領主である山中・粟屋両氏の了解のもとに早瀬浦の渡辺遠房に網の権利が認められたという(資8 早瀬区有文書二号)。
 このように早くから若狭で網漁が行なわれたことがみえるが、越前でも十五世紀末には若狭の日向浦や常神浦の浦人によりはまち網漁が伝えられた。それは急速に普及してやがて南条郡河野・今泉両浦の漁場の対立をまねいている(資6 浜野源三郎家文書一号)。南条郡の浦では網漁が飛躍的に発達し、十六世紀初めにははまち網が普及し、大網も行なわれた(資2 布施美術館文書二号)。その結果、漁村間では漁場をめぐる争いが発生したし、また漁村内部では、池大良において有力者である「参人御百姓」とは別に名子が新儀に大網を立てたため訴訟となるなど(資6 中野貞雄家文書四号、資2 布施美術館所蔵文書二号)、本百姓と小百姓との間で対立が生じており、小百姓の成長とともに網独占の形態が崩れつつあった。



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