目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      山野の生業
 中世後期になると農業生産力が安定し、衣・食・住など民衆生活に密着した諸産業の生産と流通の総量が増大していき、湊町や城下町などの地方都市も各地に形成された。ただし中世の諸産業は、農業をはじめ林業・水産業など、自然と直接に結びついた一次的な分野が大きな比重を占めている。中世後期には多種の生産職人が現われるが、彼らの背景には山野河海で生産に従事していたさらに多数の人びとがあった。
 森林や原野は、燃料・木材・果実などの生産の場として重要だった。まず中世の燃料は、灯明に使う油などを除けばほとんどは林野からもたらされたものである。中世領主は領民に燃料の貢納を命じているが、その規定から中世の燃料について具体的に知ることができる。丹生郡の山間地域にある糸生郷山方では炭と入木が課された。炭は篭に入れられ、入木は長さ一尺八寸で外周一尺八寸の薪の束とされた(資5 越知神社文書二五号)。敦賀湾の東岸にある江良浦や遠敷郡太良荘では柴が賦課された(資8 刀根春次郎家文書四号、資9 高鳥甚兵衛家文書一七号)。こうした燃料は月ごとに貢納が命じられ、さらに毎年暮に節季物として課される場合もある。この入木は領主が炊事など日常的に消費する燃料で、このほか風呂木なども臨時に課された。
写真234 山方分年貢公事注文(越知神社文書、部分)

写真234 山方分年貢公事注文(越知神社文書、部分)

 また燃料は、他の諸産業の基礎としても極めて重要だった。製塩には燃料となる大量の木が必要で、これを塩木とよんだ。戦国期敦賀郡の三か浦(縄間・沓・手浦)や名子浦では塩木が不足し、領主の気比社は山林の回復を在地に命じた(資8 秦実家文書一八号)。越前焼の壷や甕を大量に焼いた窯も同様に大量の燃料を必要とした。また冶金・鋳物・鍛冶などには、特別に良質の炭が必要だった。北庄城主堀秀治は、天正十九年(一五九一)に吉田郡永平寺門前百姓に鍛冶炭の生産と確保を命じている。炭は商品化されており、方々から需要があったのである(資4 永平寺文書二六号)。戦国期でも丹生郡小川村の百姓たちは炭竃を作り、領主の朝倉教景(宗滴)に炭本役を納め、かつ炭商売にもあたっていた(資5 越知神社文書三八号)。越前朝倉氏の城下町一乗谷では、バンドコとよばれる石製の行火に燃え残りの炭が入っていたのが発掘されている。領主は別として、多くの都市民は商品として炭などの燃料を購入していたものと想像される。
 木材の伐り出しも山林における重要な生業であった。南北朝期の遠敷郡名田荘では、注文により木材が伐採されて筏に組んで下されており、代価を受け取る商品生産がなされている(秦文書九〇号)。また丹生郡の越知山麓の各村落では十六世紀初めころからさかんに木材が伐り出され、特に耐水性に優れた栗の木は倉材などとして売り出された(資5 越知神社文書三六号)。そして大野郡など豊かな山林をもつ山間地域の住人たちは種々の木材・木製品の生産に従事し、それらを広く出荷した(資7 白山神社文書一号)。
 山林資源は再生産に時間がかかり、当時は植林などの積極的な対策も不十分だったので、乱伐はただちに資源の枯渇をもたらした。村持山などでは種々の共同体的な規制がはたらき、燃料となる杪(柴の細いもの)と木材となる桧曾(角材用の木)・長木・板木を厳密に区別して資源保護が図られた(資6 西野次郎兵衛家文書五三号、中村三之丞家文書一五号)。
 そのほか山林から得られるものに漆や木蝋があり、漆器や蝋燭の原材料になった。漆は公事物として百姓に課されており、室町期の大野郡河原郷や前述の糸生郷山方などの山間地域でみえる(資2 天理図書館保井家古文書五号)。この漆や蝋ものちには商品化しており、今立郡岩本の野辺四郎右衛門尉は秀吉から越前国中蝋燭司を命じられ、国中から蝋草を独占的に買い集めた(資6 内田吉左衛門家文書一・二号)。このように山野の生業は、他の手工業の原材料を提供するという意味でも重要な生産部門であった。
 次に果樹と茶についてごく簡単にふれる。極めて古くから木の実類は人間の食生活に少なからざる比重を占めて重要視されていたが、特に越前・若狭で注目されるのが椎の実である椎子である。椎子は古代の『延喜式』の規定では越前国から大膳職に貢進される菓子とされているが、平安後期から中世を通じてもっぱら若狭国の特産物としてみえる(『新猿楽記』『堤中納言物語』『庭訓往来』)。実際、若狭から九里半街道や近江の朽木谷を通って京都にいたる朽木口で室町期に設定された率分関(内蔵寮領の関所)の課税対象品目のなかには、椎子・栗・柿が並んでみえる(『山科家礼記』文明十二年正月二十六日条)。これらの果実は美味で保存がきくので大量に採集され、商品として京都方面でも広く流通した。また茶は、喫茶の普及にともない中世後期に越前・若狭の寺院の茶園などで栽培された(資5 越知神社文書六五号、資7 洞雲寺文書一六号、資8 善妙寺文書一二号、資9 西福寺文書七一号、資9 明通寺文書四八号)。戦国期末から近世初期になると農村でもかなり広く茶が栽培されるようになり、三方郡気山村や遠敷郡太良庄村で寛永十一年(一六三四)に注進された指出には、茶が定納となっていることが知られる(資8 宇波西神社文書二〇号、資9高鳥甚兵衛家文書二三号)。



目次へ  前ページへ  次ページへ