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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    四 織田信長と越前一向一揆
      敗北後の越前衆
 生き残った一向衆は「時宗亦ハ高田宗」となったり(「厳教寺由緒書」)、縁を頼って亡命したり、山間部の所々を漂泊した。しかし天正四年と思われる五月二十八日付顕如消息では、依然として山中に篭もり信長軍と対峙し続けている北袋野津又在城衆中に対して、顕如は忠節比類なしと賞讃・激励している(資7 長勝寺文書一号)。同年五月には府中で一揆がおこり、一〇〇〇人余が処刑されている(越前の里郷土資料館所蔵「一向一揆文字瓦」)。翌五年には、七山家一揆の討伐に向かった柴田義宣が逆に大野郡河合(皮合)村で討たれた(「柴田義宣墓銘文」)。教団組織や旧朝倉系の在地勢力が壊滅したのちは、もはや広域的・永続的な組織戦は行ないえず、信長軍と現地の名もなき民衆らが直接ぶつかりあう悲惨な抵抗運動が断続的に続いていたのであろう。
 このような敗戦状況にもかかわらず、越前の一向衆は篭城中の石山本願寺へ兵粮懇志を送り続けている(資8春照寺・宗願寺共有文書一号)。天正八年の石山戦争終結後、本願寺は合戦中の物資・資金援助を謝して礼状を全国各地の門末へ下したが、越前でも二十五日講、河南二日講、大野・足南十八日講、安養寺村惣代土佐、安養寺村・小曾原村・新庄、大野郡十五日講、直参光照下志衆、七村志惣中、二日講、平乗寺・乗祐・了願・宗二郎・乗泉惣中充てなど一〇数通が今に伝えられている(「善教寺文書」、資4 受法寺文書一・三号、「浄願寺文書」、資6 専応寺文書三号、「安心亀鑑御書集」、「光照寺文書」、「末政二日講共有文書」、資3 平乗寺文書二号)。それらの充て先は非寺院組織たる講名・俗人・志衆・地名・法名のみの人物名が記されており、永正期以降の禁制期と同様に寺院名のものはほとんどみられない。各寺の由緒書類のなかにも、例えば「志ヲ竹杖ノ中ニ認メ入レ(中略)女ヲ乞食ノ姿ニ仕立テ」て石山へ篭城懇志を送ったり(「厳教寺由緒書」、「光福寺血統譜」)、自身が石山へ出向いて篭城したなどという記事が散見される(「伏拝山本専寺縁起」、「浄応寺縁起」)。越前の一向衆は坊官・大坊主支配を拒否したが、その一方でなおも宗主と宗主の説く「仏法」を支持し続け、国内での抵抗運動や石山合戦への兵粮提出という「報謝行」を続行させていった。この現実が信長をして本願寺壊滅を断念させ、天正八年の本願寺赦免を引き出させたのであろう。
 勝山盆地の九頭竜川右岸一帯の北袋の地は、野津又長勝寺(永正一揆で退転)をはじめとして一向衆勢力の強い地域であった。永禄年間(一五五八〜七〇)には村岡山のあたりに「北袋川南之惣道場」が建てられたとの伝承もあり(「尊光寺由緒」)、早くも天正後期にはこの一帯に「廿五日講」が組織されている(年未詳十二月三日付顕如消息写「安心亀鑑御書集」、「丹坊家文書」年未詳十月十三日付顕如消息写『勝山市史』一など)。北袋一揆の指導者の嶋田将監正房は、朝倉氏から同地を充行われ本覚寺の娘を妻とする有力者であった。子の正良は天正十五年に亡命先の加賀から大野郡森川村へ戻り、「毛坊主」的存在のまま北袋五三か村の惣道場を営み、親鸞画像の下付を受け北袋の地に君臨したという(勝山市西念寺所蔵「橘家系譜」、勝山市賢勝寺所蔵慶長十年八月晦日付准如下付親鸞画像裏書など)。嶋田将監の傍系には、平泉寺子院の一族でやがて一向宗の坊主となる者がみられるが(「西念寺系図」)、朝倉氏旧臣や旧平泉寺・豊原寺系の子院の者が、信長に敗れてのち真宗に帰依し道場坊主となったという由緒書も見受けられる(「円成寺由緒」、「雲乗寺略記」、「大野志」)。外来支配者への無言の反発、自らの「国」を圧伏された無念の思い、それらが複雑に入り混じって、柴田氏支配下の多くの人びとはなおも真宗を支持し続け、やがて近世越前教団の再建へと向かっていったのであろう。



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