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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    四 織田信長と越前一向一揆
      天正三年一揆
 信長軍は天正三年八月に十万余の軍勢で再侵攻し、杉津口・木ノ芽口・大野口で瞬時に防禦陣を粉砕し、またたく間に一国を平定した。各寺の由緒書によると、栃川西光寺了珍や円宮寺了一およびその配下の干飯の善光坊や川内の善力坊らは杉津口で戦死しており(「正覚寺由緒書」、「円宮寺由緒書」、『鯖江藩寺社改牒』、「平乗寺縁起」)、橋立真宗寺順誓は白鬼女で、石田西光寺真敬(真教)も木ノ芽峠で戦死した(「真宗寺明細書」、浄勝寺所蔵「由緒書控」、「西光寺由緒書」)。そのほか砂子田徳勝寺祐寿をはじめ、各砦の多くの大坊主分が討たれたと伝えられている(『西光寺古記』)。事実、和田本覚寺・大町専修寺らの歴代系図には断絶の跡が見受けられる。下級坊官はもとより、総大将の下間頼照も逃亡中に捕らえられ惨殺されている(資4 称名寺文書二号、「朝倉始末記」)。戦場から逃れえた者も激しい残党狩りにあい、非戦闘員を含め三、四万人が犠牲となった。「越前国相越記」には、「数ノシルシニハ鼻ヲソキテ持来」と記されている(資3 山田竜治家文書一号)。



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