天正二年八月以降、織田軍の再侵攻にそなえて南条郡と敦賀郡の境目で防禦が固められた。すなわち、木ノ芽峠の観音丸砦に総指揮官の下間頼照勢(『信長公記』巻八では今城・火燧ケ城)、鉢伏砦に一家衆の大町専修寺・丹生郡西光寺・南条郡正闡坊(府中陽願寺)・今少路(丹生郡常願寺)・足羽郡照護寺勢(資4 勝授寺文書一九号)、鷹打嶽に和田本覚寺勢(鑓講衆・北庄衆)、虎杖砦に下間和泉勢、柚尾(湯尾)砦に七里頼周勢が篭もった。また海岸沿いの敦賀郡杉津口を若林・府中坊主衆・堀江衆らが守った(「朝倉始末記」)。これらの人びと以外にも、『信長公記』によると阿波賀三郎兄弟が鉢伏砦で、石田西光寺が本覚寺勢とともに鷹打岳で、大塩円宮寺勢や加賀衆が杉津口で守備についている。もっとも、内部対立や大軍侵攻の恐れからか一揆勢も多数は結集せず、しかも逃亡が相つぎ、各砦の守備は本願寺坊官や宗主一族の一家衆が前面に出る形となった。従来は大坊主分が後方で指揮し、各地の地名を冠した一揆勢が前面に出て戦う形だったが、今回はその逆である。国内の敵と戦う局地的戦闘と異質な、対外勢力の侵攻に対する防衛戦の必要性が十分には理解されず、本願寺を護る石山戦争の一環といった意識をもった坊官・大坊主分がもっぱら前面に押し出された形の配備形態である。 |