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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    四 織田信長と越前一向一揆
      一揆支配の実現
図48 天正2年の一向一揆関係図

図48 天正2年の一向一揆関係図

 信長軍制圧後の越前の国支配は、降将の前波吉継(天正元年十一月桂田長俊と改める)に任された。ところが府中を本拠とする富田長繁は桂田氏の支配に反発し、天正二年正月に騒乱が勃発する。すなわち、大野や吉田郡志比荘および坂井郡本郷・棗三郷の者と、富田勢と府中近郷の一揆勢とが一乗谷の長俊を滅ぼし、ついで足羽郡北庄の織田氏の武将三人を追放したのである。一揆勢はこれに勢いを得て、二月上旬に加賀より七里頼周を招請し、旧朝倉系の降将らを次つぎと攻め滅ぼしていった。二月中旬には、新道・杣山・葉原・鯖波の南条郡や敦賀勢、八社荘(社荘か)や織田荘・栗屋(厨)・本郷・棗三郷の坂井・丹生郡勢、本覚寺・専修寺率いる北袋・南袋・足羽・志比荘・河北の大野・吉田・足羽郡勢、宅良・三尾河内・真柄・北村の南条・今立郡勢らが、富田長繁や府中三門徒衆らを滅ぼした。続いて、杉浦玄任(本願寺坊官で当時加賀下向)の率いる河北一揆勢が、坂井郡金津の武将溝江氏を討ち果たした(「朝倉始末記」)。二月下旬から四月中旬には、杉浦氏を大将として、和田本覚寺や細野の道観兵衛(資7 寶慶寺文書七号)や嶋田将監らの北袋一揆勢、大町専修寺勢、志比荘一揆、若林(本願寺坊官下間頼充被官で当時金沢御坊へ下向)勢、照厳寺ら坂北勢、大野郡北谷一帯の七山家の一揆勢らが平泉寺と朝倉景鏡を攻め滅ぼした。かくして越前は「悉大坂(石山本願寺)ノ手ニ」「一統」され(年未詳三月七日付武田信玄書状「古文書纂」一)、「一揆持」の国となった(『信長公記』巻七)。
 一揆指導者として、和田本覚寺や大町専修寺の名がたびたび登場する。禁制期を通じて越前国内での勢力を保持し続けていたのが両寺だったからなのであろう。「朝倉始末記」や天正二年後半に集中する一〇数通に及ぶ専修寺賢会書状には(資4 勝授寺文書)、単に村名や郷名でもって一揆勢が記されている場合が多々見受けられる。おそらく本寺による直接支配を体験しないまま、無名の現地指導者を中心に村や郷などの小地域単位で長年結集し続けてきた結果であろう。大町専修寺などの指導的立場の寺院はこれら門末を村や郷単位で配下に組み込み、一揆勢として組織化していったものと推測される(同二二号、資7 稱名寺文書八号)。
 「一揆持」となった越前一国は、坂井郡豊原寺を本拠に下間頼照が総大将として差配し、杉浦が大野郡を、頼照の子の下間和泉が足羽郡を、七里頼周が府中以西を分割支配する体制を採った。本願寺は越前を本気で領有して石山戦争を有利に進めていこうとしたのである。国内の敵対勢力の打倒と信長軍再侵攻に対する防禦を同時に早急に行なわねばならないという状況下、一〇〇年に及ぶ試行錯誤の結果形成された加賀型の坊官指導体制がそのまま導入されたが、それは、長らく坊官や大寺院の支配を経験してこなかった越前一向衆にとってまさに未知の体験であった。闕所分の分配や支配権などに関して種々の不満が高じて、ついに天正二年七月に志比荘の兵衛や阿波賀の清道ら「十七講」の衆が謀叛をおこした(資4 勝授寺文書二四・二九号)。和田本覚寺はこれを誅罰し、続いて丹生郡の天下衆・吉田郡河合の八杉や河北の本庄宗玄らも成敗し、同二年閏十一月には豊原寺の下間頼照を討とうとした河合荘の者たちが逆に坊官若林勢に討たれ、十二月には足羽郡の東郷安原村の「鑓講衆」が蜂起し、下間和泉に討たれている(「朝倉始末記」)。志比衆や八杉氏や河合荘の人びとは、越前一揆の主要勢力をなした者たちである。顕如は坊官・大坊主分と在地の一揆衆との内部分裂に心痛し、「越前惣門徒中」へ充てて馳走・忠節・仏法興隆を求めるが(年未詳十月二十四日付顕如消息写「増補南越温故録」)、応じる人びとは少なかったといわれる。



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