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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    四 織田信長と越前一向一揆
      信長と越前一向衆
写真232 朝倉景鏡奉行人連著書状(最勝寺文書)

写真232 朝倉景鏡奉行人連著書状(最勝寺文書)

 元亀元年(一五七〇)八月、石山本願寺は織田信長に宣戦を布告し(年未詳八月二十七日付顕如消息『図録顕如上人余芳』)、畿内・東海の各地でいっせいに信長方へ対する戦い(石山戦争)をおこした。石山戦争とは、仏法・王法の分離による仏法の自立性をめざした蓮如教団と、同じく仏法・王法の分離による仏法の王法下への屈伏をめざした織田信長という新興武家権力との、二大勢力による激突である。近江北郡の一向衆は浅井方と共同してすでに数年にわたり信長勢と戦っていたが、同三年の本願寺の斡旋により兵粮米は越前の「御門徒中」から調達された(誓願寺文書六・九号『東浅井郡志』四)。越前一向衆も、否応なしに石山戦争への関与を深めていったのである。朝倉景鏡は大野郡内の本願寺道場・三門徒道場に対し、江北出陣への準備として「先規」のごとく「鑓持五人」の軍役提出を求めた(資7 最勝寺文書一・二号)。能登では四郡の坊主衆が一定の比率で大名権力へ「粮物」を負担し(『能登阿岸本誓寺文書』一六号)、三河でも「御門徒中」に対し独自の夫役が懸けられており(本証寺文書五号『新編岡崎市史』六)、大名権力下の門末は、そのもとで何らかの役負担を担うのが通例だったのであろう。
 天正元年(一五七三)八月、信長は大軍を率いて越前へ侵攻した。義景は大野で自害し、ここに戦国大名朝倉家は滅亡する。そのおり越前一向衆がどの程度信長軍に抵抗したかは未詳であるが、『信長公記』には「毎日百人・弐百人宛、一揆ども龍門寺の御大将(信長)陣へ」引き出され成敗されたと記している。義景の家族では女子一人だけが生き残り、「河合ノ郷ノ八杉喜兵衛」らの尽力で顕如の子の教如の室となるべく石山本願寺へ届けられている(「朝倉始末記」)。当時加賀・越中衆は越中戦線で上杉軍と二年越しの対陣を続けていたが、顕如は越前での事態急変に苦慮し、坊官の寺内下野・池尾氏を、続いて十一月には七里頼周を下し、加賀衆の指揮にあたらせた(「高岡光慶寺文書」年未詳八月二十四日付顕如消息『目で見る越中真宗史』)。



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