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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
     三 禁制下の一向衆
      一向衆の広域的結合
 北陸諸国の門末は、北陸全体に及ぶ広域的な結合を各国の大名権力によって阻止されたが、各国の国境線を超えた「北陸一向衆」という一体感はもち続けた。古くは吉崎坊舎の旧跡を加賀一門と越前の和田本覚寺がともに管理しており、永正三年以降、かつて越前に寺基を有していた本願寺と血縁関係のない有力寺院(真宗寺・興宗寺・照厳寺・本向寺・徳勝寺)は、加賀衆の一員として本願寺の御堂番役を勤仕している。能登・越中の一部坊主衆も加賀番衆として本願寺に上番しており、加賀衆とは、加賀の門末のみでなく広く北陸諸国の門末をも含んだ呼称であった。本願寺のめざすべき教団構造は、国とか郡の境界線に拘束されず、一門衆を頂点に仰ぐ型の組織形態を一つの理想型としている。加賀国江沼郡内には、真宗に属する前は豊原寺末寺だったという伝承を有する寺院が多々みられる。加越国境を挟んで江沼郡内と越前坂井郡に、古くは豊原寺系の子院が点在していたということなのだろう。加越国境はあくまで大名権力にとっての境界線であり、一向衆はもとより顕密寺社勢力や荘園領主権力にとっても一障害でしかなかった。
 『天文日記』には、加賀山内の牛首・風嵐の者が平泉寺衆と組んで白山権現の造営を行なったとの記事がある(同 天文十二年十二月二十四日条)。白山信仰は禁制の対象外であり、実際に加賀馬場・越前馬場・美濃馬場を結ぶ山間部の回廊は、公的な北国街道とは違って庶民の道・信仰の道・生活の道として機能し続けていたはずである。本覚寺の門徒は手取川・牛首川に沿って点在しているといわれる。その川沿いの行き着く先は大野である。享禄錯乱で小一揆派が越前へ逃れたとか、弘治一揆ののち超勝寺が越前へ逃れたということも、おそらくこの道をたどってのことと思われる。天正九年(一五八一)十一月二十八日付蓮如画像裏書写(岐阜県大和村西念寺所蔵)には、「専修寺門徒美濃国郡上郡 越前国大野郡両国郡 山中惣中」という所付が記されている。美濃国郡上郡内の三か所と大野郡内の六か所の「九カ村同行中」が、国境をまたいでこの画像のもとに結集しているのである(光明寺文書一二号『大野市史』社寺文書編)。天正八年と考えられる八ケ村惣中(のちの大谷派八ケ同行の母体)に対する教如消息の写は、大野郡の古瀬家・朝日助左衛門家、郡上郡の渡辺喜三郎家と、越前・美濃にまたがって伝存している(「古世家文書」、資7 朝日助左衛門家文書一号、『白鳥町史』通史編上巻)。以上の点から、加賀山内・越前大野・奥美濃間の交通路がどうにか維持されていたことや(『天文日記』天文五年十月十八日条)、朝倉氏は大野郡全体を完全に掌握しきれていなかったことがわかってくる。もっとも、加賀・奥美濃・江北はともに一向衆の極めて優勢な地帯である。朝倉領国の越前のみを周囲の一向衆優勢地帯と遮断し続けることは、実際上不可能であった。



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