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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
     三 禁制下の一向衆
      禁制の実態・本質
 禁制下に法物や御文類が存在していたとすると、いったい朝倉氏や織田氏は一向宗の何を禁止していたのだろうか。表50をみると、本尊・寿像類ばかりで親鸞画像が全くといってよいほど存在していないことが注目される。親鸞画像とは所属宗派を告げる象徴物ではなく、本寺級の所に安置され門末はその本寺に属さなければ親鸞と対面できない、そのような単位組織を形成し維持していくうえでの核となる法物である。親鸞画像が存在しないということは、為政者側がその画像に的を絞って摘発した可能性が考えられる。その一方、本願寺の側でも禁制下の越前へは積極的にそれを下付しなかったという推測も可能となる。もちろん朝倉氏の禁制策を遵守するためでなく、本寺級の寺院がすべて亡命したり破壊されてしまっている地方には、親鸞画像を仮に下してもその機能は十分に発揮されないからである。

表50 一向宗禁制期の本尊・画像一覧

表50 一向宗禁制期の本尊・画像一覧

 禁制下でも門末が存続しているのは、身分によって処罰に差異があったためと思われる。例えば「大内氏掟書」では、宗論禁止の条項に背いた者は、「出家之人ハ、速に御分国中を出さるべき、凡俗輩并に商客下劣之類ハ(中略)厳科に処さるべきものなり」と身分による区別が示されている。道場坊主以下の者は非出家者つまり俗人扱いで、厳罰は下されるものの、国外追放の処罰はこうむらなかったのである。また「凡俗輩并に商客下劣之類」たる門末は、「髪剃リタル坊主」と違い宗内史料でも俗名でよばれている者が多く、彼らは当然のことながら他の種々の職業に従事しており、外見からただちに一向衆であることが判明することはなかった。
写真231 佐良谷村惣代左衛門等連署請文(稱名寺文書)

写真231 佐良谷村惣代左衛門等連署請文(稱名寺文書)

 一向衆のなかには、転宗・転派を遂げて現地での存続を許された場合もあったことだろう。その場合、単に本願寺系門末たることを放棄するとの意思表示で済んだのではなく、「高田三ケ寺」(大野郡専福寺、足羽郡称名寺・法光寺)へ「寺役相働くべく候」というように(資7 稱名寺文書八号)、改めて他宗派寺院への帰属を命じられている例が見受けられる。政治的・社会的制度としての本末・寺檀制度が確立する以前の戦国期にあっては、実際に何らかの「役」を担って初めて所属・帰属が確定される。したがって本願寺にしてみれば、役勤仕こそが「門徒」たるあかしとなり、反対に、高田系などの他宗派寺院へ実際に寺役を勤めて初めて本願寺系の所属身分を絶ったあかしとなるのである。なお役勤仕の有無を判別するには、何よりも現地の者による注進・申告が不可欠であった。



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