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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
     三 禁制下の一向衆
      禁制下の法物類
 近世初期の史料によると、大野郡野津又長勝寺は一揆で退転したが、同寺の門徒は直接本願寺から、または超勝寺経由で本尊を下付してもらい、依然として現地にとどまり続けていたことが知られる(資7 法勝寺文書七号)。現地の一向衆にとって、この本尊もまた、寺院なきのちの結集の核であった。表49の数値は、現存物はもちろん由緒書・法物書上などによって、かつて越前・美濃・飛騨に下されたことが知られる本尊・画像類の数である。このうち越前へ下された法物類の数値がいかなる特徴をもつものなのかは、隣国の飛騨・美濃へ下された法物類との比較によって明確になる。仮に、本尊を下される者が道場坊主で、画像を下される者が寺院住持と単純化したうえで数値比率の比較をすると、少数の画像所持寺院と多数の門末道場の形成が進行していったのが飛騨で越前はその逆、美濃は両者の中間ということになる。また越前の実如・証如期の画像存在比率は美濃と比べて伸びがなく、実如期の本尊存在比率も他の両国のような急激な伸びがみられない。この低比率が禁制の実質的影響度なのだろう。 

表49 越前・飛騨・美濃における本尊・画像数

表49 越前・飛騨・美濃における本尊・画像数

 法物類のなかで、永正三年一揆後から永禄年間(一五五八〜七〇)末までの間に越前国内へ下された可能性があるものを列記したのが表50である。この一覧の所付に着目すると、在国の寺院やその門末へ下された法物はほぼ皆無であり、逆にCIL26が示すように、美濃安養寺・加賀の藤島超勝寺・三河本証寺などの他国在住大寺院の教線が大野郡域を中心に伸びていることがわかる。もっとも、@232425は所蔵寺院が他国から持ってきたものか、帰国後に現地のものが流入したか否か未詳で、R29は現存しない。Oなど裏書の各項目が不備・不完全・略式のものも多数ある。ただ国内の例では、Eの隠居所充て、FQの後家充て、S21の惣道場充てのものが注目される。これらは先の『天文日記』でみられた国内在住の門末の特徴とほぼ一致するからである。
 ところで裏書の所付に注目すると、移転先の新地名で法物下付を受ける例と、旧地名のままで下付を受ける例とがある。例えば興宗寺の場合は、『天文日記』では現実の所在地である「カゝ興宗寺」と記されているのに、裏書は依然として「越前国坂北郡長畝郷但馬村」のままである(『加賀市史』通史上巻)。亡命寺院が裏書などで旧地名を名乗り続ける理由は、自発的な移動でなく相手方の「非理」によるやむをえない移動とか、亡命・逃亡・敗北という事実の否認とか、その種の主張が強く反映されているためと推測される。



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