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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      蓮如の吉崎退去
 一揆の喧騒のなか、文明七年八月下旬に蓮如は吉崎を突然退去した。戦国期の種々の戦いでは、現地から退去した事実をもって降参とか身の非関与性のあかしとする例が散見される。おそらく蓮如の退去も同様な意思表示だったのであろう。退去は海路で、一説には若狭の遠敷郡多烏へ上陸し、それから古津(西津付近)へ再上陸し、小浜妙光寺あるいは向島(小浜市酒井)で数十日間を過ごしたと伝えられている(上中町明応寺所蔵「蓮如上人御木像略縁起」、小浜市元海寺所蔵天正元年五月二十八日付梵鐘銘『小浜市史』金石文編、『若州管内社寺由緒記』)。そののち蓮如が遠敷郡名田荘志見ケ谷(染ケ谷)を経由して知井坂を越え、丹波路に出て河内の出口坊(大阪府枚方市光善寺)にたどり着いたのは、年末近くであった。吉崎から出口までに約四か月を費やしている事実をふまえると、小浜近辺の諸寺に伝わる蓮如来訪伝承や数十日間の滞在伝承は、事実だった可能性が高い。小浜近辺での滞在理由は、蓮如自身はもとより北陸や畿内各地の蓮如庶子の間でも、吉崎へ今一度戻るべきか他の地へ去るべきかの明確な決心がつきかねている状態で、そのため今後の行き着く先に確固とした見通しが立てられなかったからと推測される。
 吉崎退去のおり、蓮崇は蓮如の子供たちから同船を拒否された。そののち一年ほどたった同八年秋ごろ、文明七年一揆の取次ぎのときの虚言が露顕し、蓮崇は破門の身となった(「天正三年記」、「徳了袖日記」)。蓮如は明応八年(一四九九)三月二十五日に没するが、死の直前に周囲の強い反対を押し切って蓮崇を赦免した(「空善記」、「天正三年記」)。蓮如死没の三日後に蓮崇も没した。
 吉崎の坊舎は、蓮如退去後も諸国の門末からいわば旧跡とみなされ、参詣を受けていた可能性がある(源光寺所蔵「吉崎御坊参拝記」)。坊舎の管理は、加賀在住の一門たる波佐谷松岡寺蓮綱(蓮如三男)や若松本泉寺蓮悟(蓮如七男)が行なった(『雑事記』文明十一年十二月十九日・明応三年六月晦日条)。ただ、明応ころと推定される五月十日付蓮如書状(石川県七尾市常福寺所蔵)に「吉崎事留守之儀、(中略)皆それ(本覚寺)の計らいたるべく候」とあり(『蓮如上人御文』七一号、『蓮如上人遺文』二一九)、また「吉崎浦和田道場講中常住物」と記されている裏書もあり(石川県松任市本誓寺所蔵永正二年三月十日付親鸞・蓮如連座像裏書)、実際は和田本覚寺蓮光・蓮恵が代わりに預かっていたらしい(『雑事記』文明十六年十月二十五日条)。大谷一族でない本覚寺が他の庶子一族寺院と並んで後世まで大きな地位を占めたのは、吉崎坊舎の実質的代務者であったためと推測される。



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