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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    二 加越の一向衆と朝倉氏との戦い
      長享前後の情勢
 文明十一年(一四七九)から同十三年九月にかけて、朝倉氏と加賀から侵入する斯波(義敏)・甲斐勢との間で断続的ながら激戦が交わされた。戦いの過程で坂井郡豊原寺と大野郡平泉寺は次第に朝倉方へ与同し、ついに反朝倉勢の越前国内の拠点は消滅するにいたった(『雑事記』文明十三年九月二十四日条)。同十六年冬に、甲斐方を支援するために「加州一揆」が越前へ討ち入るらしいとの噂が流れている(同 同年十一月七日条)。加賀一揆勢と朝倉氏との対立関係の初めての表面化である。甲斐勢は明応二年(一四九三)十月に大野郡や豊原寺へ侵攻し、朝倉勢と激戦のすえ加賀に退却した(同 同年十一月六・九日条、『後慈眼院殿御記』同年十月十二・十九日条)。甲斐勢は大打撃をこうむったらしく、こののち越前への侵攻を告げる記事はほとんど日記類に出てこなくなる。
 長享二年(一四八八)には加賀で再び大規模な一揆がおこり、守護の富樫政親が倒された。坂井郡の国人堀江景用は富樫氏と同族であることから急遽救援に向かうものの、菅生の願正ら江沼郡の一揆に阻まれたといわれる(「朝倉家録」、「官知論」)。以後、加賀の一向衆は国内の主導権を徐々に掌握していく。なお政親の妻(あるいは娘)は高田専修寺の真恵に嫁し、応真を生んだとも伝えられている。このときの越前一向衆の動向は史料的に未詳だが、大名権力と対抗するほどに成長してきた隣国の一向衆の存在に対して、朝倉氏もおそらくは強い警戒心を抱き始めたに違いない。長享二年秋、天台念仏系の真盛が南条郡府中(武生市)に滞在し精力的な教化を行なった。このとき、貞景らの朝倉一族をはじめ「貴賎上下」がこぞって帰依している(『訳註真盛上人往生伝記』)。真盛の唱える教義は浄土系の諸集団や三門徒派と近似しており(「奏進法話」)、本願寺系諸寺院の目には、在地の念仏者を吸収・組織化するうえで、高田門徒以外の新たなる競合勢力の登場と映ったことだろう。



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