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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      文明七年加賀一揆
 翌文明七年に、一揆方の一部急進派と政親方の一部反一向宗勢(槻橋勢)との間で小規模な戦いがおこった。このとき吉崎の蓮如は中間者的な立場に立っていた。急進派一揆勢は越中へ退却し蓮如に還住のための調停を求めたが、取次ぎの蓮崇は、上人は戦いの継続を求めていると偽りの返答をし、逆に急進派をあおった(「天正三年記」、「徳了袖日記」、「拾塵記」)。
 福井市西木田の浄得寺に、奥付証判のない「三十六通御文集」写本が存在する。その一六通目に「筑紫方の章」が収録されている。この章は『蓮如上人遺文』では真偽未定とされていたが、柳宗悦氏所蔵の「柳本御文集」によって金沢市の吉藤専光寺所蔵であることが判明し、蓮如の書いたものと認定されるにいたっている。同章によると、急進派一揆勢は蓮如に「弓矢の仲人」を頼んだが、結局某所の城内を放火ののちに退散し、詫言をして三年ばかり過ぎて本地に還住したと記されている。ここにみられる「降参の作法」は当該期の諸例と類似し、記述概要も先の「天正三年記」と重複・補完する。また同章には、この急進派一揆勢は『和讃』『正信偈』ばかりを用い、念珠は持たず、一益法門(後述)の傾向が強く、一遍の念仏も申さず、善知識だのみを特徴とし、弓矢をとることを当然と考えている集団であったとも記されている。この特徴は、「愚闇記」や「愚闇記返札」(『真宗史料集成』四)で指摘されている越前三門徒衆の特徴と驚くほど一致する。文明七年一揆の主体は、別の史料では「国中の門人」とか「百姓衆」「御門徒衆・坊主衆」と記されているが、一揆敗北後も吉崎が存続して加賀・越前国内の本願寺系の勢力がいっそう拡大し続けた理由は、七年一揆の主体を蓮如膝下の本願寺系の門末ではなく三門徒系の者たちと理解すれば納得できよう。金沢市の吉藤専光寺など三か寺に、一揆への参加を叱った「お叱りの御書」が存在している。この書は従来は長享二年(一四八八)と推定されていたが、蓮如の花押の編年型からみて文明七年一揆時の方がよいとの見解もある。またこの専光寺は、元来三門徒系の寺院であったとの説もある。
写真228 大町専修寺跡(福井市大町)

写真228 大町専修寺跡(福井市大町)

 三門徒の教義は本願寺側から秘事・邪義と非難されている。その理由は、信心を得たならば死を待たずにそのときから仏になるという「一益法門」を主張し、わが身がそのまま仏であるから、それ以外の本尊などの礼拝対象物をあえて拝む必要はないという「不拝秘事」を主張するからである。ちなみに蓮如は「現当二益」を主張し、本尊以外の人師・善知識をともに仏とみなす「善知識だのみ」などの見方を批判する(「反古裏書」、「大谷遺跡録」『真宗史料集成』八)。ただし善知識だのみは中世仏教界における一般的な認識そのものであり、三門徒派における本尊否定の主張は、この人師・善知識重視観の極端な帰着点でもあった。蓮如は吉崎滞在期の最後の御文で、「国の仏法の次第」が自分の主張する教えと相違しており、伝えたこともない「えせ法門」を述べて人びとを惑わし教義をけがす者たちがいると批判し、本願寺流の教義を受容すべきだと主張している(『蓮如上人遺文』八三)。おそらく、三門徒派の者たちを念頭においた批判なのであろう。
 三門徒派の本寺たる今立郡横越証誠寺の上釣坊玄秀(毫摂寺善智の養子)は吉崎時代に蓮如に帰参し、今立郡毫摂寺の善鎮(善智の子か、正闡坊と号す)は山科時代(文明十年以降)蓮如に帰参した(「反古裏書」「大谷一流系図」)。もっとも、集団的な結集状態が分解して各寺がそれぞれ本願寺と直結するような帰参ではなく、三門徒系各派が集団単位で新興蓮如教団にいわば「参画」していったのであろう。したがって、証誠寺や毫摂寺による配下の集団に対する統制権は依然有効だったものと想像される。蓮如は教義的には全面的に合致せぬ北陸各地の念仏系諸集団に対して、一方では高田勢に対するごとく鋭く対決し、他方では三門徒勢に対するごとく批判しながらも糾合へと向かっていったのであった。



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