翌文明七年に、一揆方の一部急進派と政親方の一部反一向宗勢(槻橋勢)との間で小規模な戦いがおこった。このとき吉崎の蓮如は中間者的な立場に立っていた。急進派一揆勢は越中へ退却し蓮如に還住のための調停を求めたが、取次ぎの蓮崇は、上人は戦いの継続を求めていると偽りの返答をし、逆に急進派をあおった(「天正三年記」、「徳了袖日記」、「拾塵記」)。
福井市西木田の浄得寺に、奥付証判のない「三十六通御文集」写本が存在する。その一六通目に「筑紫方の章」が収録されている。この章は『蓮如上人遺文』では真偽未定とされていたが、柳宗悦氏所蔵の「柳本御文集」によって金沢市の吉藤専光寺所蔵であることが判明し、蓮如の書いたものと認定されるにいたっている。同章によると、急進派一揆勢は蓮如に「弓矢の仲人」を頼んだが、結局某所の城内を放火ののちに退散し、詫言をして三年ばかり過ぎて本地に還住したと記されている。ここにみられる「降参の作法」は当該期の諸例と類似し、記述概要も先の「天正三年記」と重複・補完する。また同章には、この急進派一揆勢は『和讃』『正信偈』ばかりを用い、念珠は持たず、一益法門(後述)の傾向が強く、一遍の念仏も申さず、善知識だのみを特徴とし、弓矢をとることを当然と考えている集団であったとも記されている。この特徴は、「愚闇記」や「愚闇記返札」(『真宗史料集成』四)で指摘されている越前三門徒衆の特徴と驚くほど一致する。文明七年一揆の主体は、別の史料では「国中の門人」とか「百姓衆」「御門徒衆・坊主衆」と記されているが、一揆敗北後も吉崎が存続して加賀・越前国内の本願寺系の勢力がいっそう拡大し続けた理由は、七年一揆の主体を蓮如膝下の本願寺系の門末ではなく三門徒系の者たちと理解すれば納得できよう。金沢市の吉藤専光寺など三か寺に、一揆への参加を叱った「お叱りの御書」が存在している。この書は従来は長享二年(一四八八)と推定されていたが、蓮如の花押の編年型からみて文明七年一揆時の方がよいとの見解もある。またこの専光寺は、元来三門徒系の寺院であったとの説もある。 |