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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    四 反信長連合の形成と朝倉氏
      信長との対立
写真216 織田信長画像

写真216 織田信長画像

写真217 足利義昭木像

写真217 足利義昭木像

 翌十二年正月、三好三人衆は義昭を亡き者にしようと京都に進攻して御座所の本圀寺を襲撃したが失敗した。信長は急遽上洛し、ついで義昭の新しい御所として勘解由小路室町第(二条城)の造営を始めた。このとき信長に従って五畿内・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波計一一か国の軍勢が上洛したといい、さらに御所の造営には伊賀・播磨の武士たちも加わっている(『言継卿記』同年正月十二日・二月二日条)。ほぼこうした国ぐにが当時義昭と信長の命令が直接及ぶ範囲だった。越前に対しても前から上洛が命じられていたが、義景は信長の策略にかかることを警戒し一貫してこれを無視し、逆に敦賀の金ケ崎・天筒山両城や北陸道の木ノ芽峠、そして湖北の木ノ本方面と結ぶ中河内・椿坂などの諸城を固めさせた(「越州軍記」)。義昭と信長との間を取りもっていた政僧朝山日乗から毛利元就以下に充てられた八月十九日付の書状によれば、信長は伊勢国司北畠教具を討ったのちに畿内近国を平定して上洛し、次はいよいよ阿波・讃岐の三好氏か越前の朝倉氏のどちらかを討伐する予定であると報じられている(資2 益田家文書二号)。朝倉氏が三好氏と並ぶ信長の二大敵対勢力とみなされていることがわかる。しかしこの信長の伊勢攻めは予想以上に手間どり、かつその直後から信長と義昭との間の政治的対立が深まったので、信長は岐阜へ下り年内は動かなかった。
写真218 姉川古戦場跡付近

写真218 姉川古戦場跡付近

 翌元亀元年(一五七〇)正月、信長は義昭に五か条の条書を認めさせて将軍権力に大きな制約を加え、同時に諸国の大名に上洛を命じた。信長はこの命令に従わない者を敵対者として打倒する大義名分を得て二月末に上洛し、越前侵攻の準備を進めた。四月下旬に信長は若狭を通って敦賀を急襲し、天筒山・金ケ崎両城や疋壇(疋田)城などを次つぎと落とした(『信長公記』巻三、「越州軍記」、『言継卿記』同年四月二十九日条)。しかしこのとき江北の浅井氏が朝倉氏救援のため海津に出兵してその退路を塞いだため、信長は撤退を余儀なくされて若狭を経て京都に帰った。ついで朝倉氏は景鏡を大将として、美濃の垂井・赤坂まで進攻した。このため信長は伊勢を経由して岐阜に帰り、ただちに江北出兵の準備をした。当初は足利義昭が高島方面へ動座して江北の浅井氏を挟撃する計画であったが、摂津の三好勢の情勢不安によりそれは中止となり、結局徳川家康と信長の連合軍により浅井攻めが行なわれた。六月二十八日に姉川を挟んで浅井長政勢およびこれを援けるために越前から出兵した朝倉景健を大将とする軍勢と信長・家康勢が激しい戦闘を繰り広げ、浅井勢は敗北した。信長は横山城を落として木下秀吉を置き、浅井氏の居城の小谷城の監視にあたらせた。
 信長の美濃・近江進出にともない、そこに多くの所領をもっていた山門(延暦寺)は経済的な圧迫を受けた。さらにこの年、信長が江南の各地にその武将を配置するに及んで、山門領の回復と信長の近江支配とが両立しえないことが明らかになった。朝倉氏は義景の父の孝景の代から比叡山に仏堂を建立するなど山門・日吉社との結びつきを強め、義景も同じくこれを重んじた。次に江北の浅井氏は、信長の美濃進出にともない信長の妹お市の方を妻とする政略結婚を遂げていったんは信長と連盟したが、信長が江南を制圧し六角氏を追い出す過程をまのあたりにし、さらに信長が急に越前に侵攻するのに及んで態度を翻した。また江南各地の一揆や、坂田・浅井・伊香三郡の本願寺派の中心寺院である江北一〇か寺を代表とする一向一揆は、信長の支配に大きな危機感を抱き鋭く反抗した。これら近江の諸勢力と朝倉氏との間に反信長の連合関係が形成され、四年にわたる信長との対立が続く。そして石山本願寺・三好三人衆・武田信玄などによる大きな反信長連合の環へと拡がっていくのである。
 越前国内ではこのころから、丹生郡の岩本氏や今立郡の木津氏といった土豪たちの買得した田畠等の目録にも朝倉氏の裏判が据えられるようになり(資6 木津靖家文書一号、木下喜蔵家文書一号『福井県史研究』一〇)、土地の安堵を通じて在地土豪層の掌握・軍事編成が進められる一方、本願寺門徒や三門徒に対しては鎗持ちが課されるなど(資7 最勝寺文書一〜三号)、戦力強化が図られていった。また府中両人や敦賀郡司が有した管轄郡内の支配権は一乗谷に吸収され、義景の奏者である鳥居景近・高橋景業が奉行人に代わって重用されるなど、朝倉惣領家へ権限が集中されていく(資2 馬場寿子家文書二号、資6 水谷幸雄家文書二号)。越前への往還が封鎖されるなかで(「神田孝平氏所蔵文書」、「尋憲記」元亀二年十二月六日条)、朝倉氏はこうして信長に対する臨戦軍事体制を整えていった。



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