目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    五 朝倉義景の近江出兵と滅亡
      和睦と対峙
 元亀元年(一五七〇)七月、三好三人衆は態勢を整え阿波から摂津に出兵し、野田・福島に立て篭もった。八月信長は再び上洛して義昭とともに摂津へ出陣した。ここにいたって本願寺顕如は三好勢と連合して、諸国の門徒に一揆蜂起を命じて信長に反抗した。こうした動きに連携して朝倉義景は九月十三日に二万余の軍勢を率いて一乗谷から出陣し、京都を急襲しようとした(「朝倉軍談」)。朝倉景健を大将とする越前勢の先鋒は近江の下坂本で防戦した織田信治・森可成らを討ち取り、入京を果たした。信長は急遽京都に帰り、大津方面から反撃を始めた。十月中旬に義景は馬廻衆や景鏡と一緒に上坂本に本陣を進めた(資2 米沢市立図書館 歴代古案四号)。越前勢は白鳥越など比叡山の峠越えの道により京都との連絡を確保した。京都の大寺社や惣村・町人たちはいち早く越前勢と接触して禁制を得た。信長は比叡山上での戦いで兵力を失って包囲されることを恐れ、義景に和睦を申し入れた。しかし義景はこれを拒否して抵抗し、十一月二十六日越前勢は堅田奪回をねらった美濃勢を討ち取り、湖上の連絡路を断とうとする信長の策略を阻止した。 
写真219 朝倉義景画像

写真219 朝倉義景画像

この戦いの二日後、ついに足利義昭が停戦の仲介に動き出した。延暦寺は和議に難色を示したが、山門領安堵の種々の保証を得て妥協し、信長・義景両者の和睦も成立した。越前勢はまさに延暦寺・日吉社の境内や門前に布陣していたわけであり、義景は山門と共同して信長方に対陣していた。しかし雪の降り積もる真冬は戦いを休み新春はそれぞれ本拠地で迎えるという当時の合戦の習慣により、義景は義昭がお膳立てした和睦交渉の結果、十二月十五日に兵を越前に引いたのである(同、『言継卿記』同年十二月十五日条)。
 当時信長は岐阜に根拠地を置き、主として東山道を通って京都との間を往復しつつ統一事業を進めていた。翌二年二月には浅井方の佐和山城が落ち、信長の上洛経路は完全に確保された。江北の浅井氏の居城である小谷城や越前がこうした経路からやや北に位置していたこともあって、信長は浅井・朝倉攻めに結着をつけることを急がず対峙の状況が続いた。同年八月信長は収穫期をねらって江北を攻めた。この秋の攻勢はそののち毎年繰り返されるが、その直後に信長勢は江南の一揆を平らげ、さらに坂本・比叡山を焼き打ちにした。この焼打ちは朝倉氏に協力した山門とそれを支持した滋賀郡の在地勢力に対する報復であるとともに、信長の敵対者たちへの示威効果をもねらったものであろう。これに対して義景はただちに坂本の日吉社復興に協力し、越前の国中の諸商売人に役銭を賦課して新寄進を行なった(資4 浄光寺文書三・四号)。
 またこの年、信長に対抗する意味で本願寺顕如と義景の間の結束が強化された。顕如は義景の娘を将来子息の教如の嫁にすることを求めて祝儀を贈り、これが受け入れられて婚約が成立した(「顕如上人文案」)。また顕如は十一月に朝倉義景・景鏡・景健、浅井長政・久政に書状を送り、江北の安全について全面的に越前に依頼して両国が力を合わせて策をめぐらすよう申し入れている。こうした顕如の動きの背景には江北一〇か寺などに結集した一向一揆の必死の要請があった。一揆勢は近江の各地で直接信長に対して反抗を続けていたが、残された道は浅井・朝倉両氏および越前一向宗との団結以外にはなく、実際に朝倉氏や越前門徒たちは江北への物資支援を続けた(「誓願寺文書」)。



目次へ  前ページへ  次ページへ