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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    四 反信長連合の形成と朝倉氏
      義昭の越前逗留と上洛
 朝倉氏の最後の当主義景の代も末になると、越前は天下統一の大きな動きに巻き込まれていった。永禄八年(一五六五)五月、三好三人衆らの謀叛により将軍足利義輝が殺された。この義輝の弟が最後の室町将軍となる足利義昭である。義昭は諸国の大名を頼って将軍として天下に号令しようと考え、そのために越前にも二年近く逗留したが、結局織田信長を頼って上洛を遂げた。その後の信長の天下統一事業の推進と義昭の動向は、朝倉義景の家を滅亡へと導くのである。
 足利義昭は義輝暗殺当時、大和興福寺の一乗院門跡で覚慶といった。覚慶は将軍位の後継者とみなされ、母方の叔父大覚寺義俊の補佐により、朝倉義景と連絡して三好三人衆の手の及ぶ大和を脱出し近江に向かった(『上杉家文書』)。朝倉義景は義俊や覚慶の縁者にもあたり、特にたびたび越前に下向した義俊は深く義景を信頼していた。覚慶は還俗して義秋と名乗り、近江から若狭を経て永禄九年九月敦賀に入った(同前)。義俊と義秋は早くから義景のほか若狭の武田義統や尾張の織田信長にも協力を要請しているが、遠く越後の上杉輝虎に期待するところが大きかったといわれる。義秋は輝虎の上洛を促進するために相模北条・甲斐武田との三者和睦を命じ、加賀一向一揆と越前の和睦を本願寺顕如に命じた。だが朝倉氏の内部では、同十年三月に坂井郡の有力国人堀江氏が加賀一向一揆と結んで義景に謀叛をおこすなど安定を欠いていた。しかし同年冬ようやく加賀一向衆と朝倉氏の和睦が実現する運びとなり、十一月二十一日義秋は敦賀から一乗谷へ移った(「越州軍記」)。
 義景は義秋を盛り立て、翌十一年四月に朝倉館において元服の儀を挙行した(「越州軍記」、「朝倉義景亭御成記」など)。このとき義秋は義昭と改名した。五月十七日には義景は朝倉館に義昭の御成り(訪問)を迎ぎ、義昭を将軍になぞらえて盛大な宴を催した(同前)。義景の歓待により義昭は越前滞在を続けたが、越後の上杉輝虎は武田信玄との対立によりいまだ越中を攻めあぐんでいる状態であった。義昭はこうした北国の状況に見切りをつけて一乗谷を去り、翌十一年七月美濃へ向かった。織田信長はこの前年に美濃を攻略し、小牧山から井口に移ってこれを岐阜と改称した。義昭は信長が上洛に最短距離にあると判断したのである。信長はただちに江南の六角氏を制圧して義昭を上洛させ、畿内の三好三人衆方の諸勢力を平定して、同年十月義昭は晴れて征夷大将軍になった。



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