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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    三 信長の若狭侵入
      若狭と信長
 元亀二年十二月、信長方につく熊谷氏により三方郡倉見荘が押領されたことについて武田信方から訴えを受けた朝倉氏は、その裁決を義昭にゆだねており(資2 浜田勝次氏所蔵文書一号、尊経閣文庫所蔵文書八一号)、また信長も幕府料所である遠敷郡安賀荘の代官職に関する粟屋孫八郎の訴えを義昭へ取り次いでいるように(『信長公記』巻六)、朝倉氏も信長も若狭が形のうえでは将軍支配であることをふまえており、そのもとで旧武田家臣の掌握に努めていた。しかし元亀三年十二月に近江に在陣していた朝倉氏が越前へ兵を戻し、翌四年四月には武田信玄が信濃で死去するなど信長包囲陣が崩れていくなかで、この年二月の挙兵失敗ののち七月に再挙兵した将軍義昭もついに信長に将軍職を追われ、室町幕府は滅亡した。こうした情勢のなかで、朝倉方についていた武田信方や山県秀政らは信長方に寝返り(資2 尊経閣文庫所蔵文書八二・九〇号など)、最後まで抵抗していた武藤友益・粟屋右京亮は討たれ、大飯郡にあった彼らの所領は闕所とされた(『信長公記』巻一四)。ここに旧武田家臣たちは再び信長のもとに束ねられ、若狭の支配についても彼の手中に握られることになったのである。
 七月二十八日に天正と改元を行なった信長はさらに信長包囲陣の切崩しにかかり、八月に浅井・朝倉氏への攻撃を再開し敦賀に侵攻してくる。このとき粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・白井勝胤をはじめ、内藤・熊谷・香川・寺井・松宮・畑田氏らの旧武田家臣らは信長を敦賀郡の道口まで出迎え、そのうち粟屋勝久らはともに一乗谷へ出陣し朝倉氏攻撃に加わったという(『若州国吉篭城記』)。信長の家臣である丹羽長秀が入部すると旧武田家臣はその「与力」として再編成されたと考えられ、天正三年(一五七五)の越前一向一揆討伐をはじめ、丹羽氏とともに各地に転戦している(『信長公記』巻八〜一一)。若狭の支配にも旧武田家臣が登用されていくことになった。



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