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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    三 信長の若狭侵入
      朝倉氏の再侵攻
 武田信方は熊川で信長を出迎えることなく、また浅井・朝倉氏を討つための姉川出陣にさいして将軍義昭も近江国高島郡に出陣するのでそれへ参陣するようにと同年六月に信長から要請があったときも(資2 尊経閣文庫所蔵文書七五号)、応じる気配をみせなかった。彼はこのころから朝倉氏と結ぶようになっていたと思われる。しかし信長は、朝倉攻めのさいに信長を裏切った大飯郡の武藤友益に対して、城郭を破却し母親を人質に取り再び自軍につかせる処置をとっているように(『信長公記』巻二、『毛利家文書』)、朝倉攻めに失敗して以降もなお旧武田家臣のほとんどを掌握していたと思われる。
 ところが信長の勢力が強大になっていくと、七月に阿波へ退いていた三好勢が摂津に上陸し、信長と対立を深めつつあった将軍義昭をはじめとして、三好―朝倉―浅井―石山本願寺などの勢力が結集を強め信長への攻撃を開始したのである。九月から十月にかけて浅井氏とともに南近江・坂本・山科ヘ攻め込んだ朝倉勢は、同時に十月若狭遠敷郡へも再び侵攻し(資9 神宮寺文書五四号など)、武田信方が小浜を中心として統治にあたることになる(資2 尊経閣文庫所蔵文書七六号、資9 河野恒治家文書一号)。そして山県秀政や大飯郡の武藤友益・粟屋右京亮らも朝倉方に寝返っており(『言継卿記』同年九月二十日条)、信長方につく三方郡の粟屋勝久・熊谷氏や大飯郡の本郷氏らをはじめとする武士たちとの間で戦闘が繰り返されることになった。いったん信長に掌握されかけたかにみえた若狭の旧武田家臣は、朝倉義景と織田信長両勢力のもとに分裂して戦うことになった。



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