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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    三 信長の若狭侵入
      家臣一同の出迎え
写真214 遠敷都熊川

写真214 遠敷都熊川

 失脚していた庶子家武田信方は、永禄十一年(一五六八)十二月に将軍近習の上野氏に対して「上意」に応じて遠敷郡賀茂荘の社納について違乱しないと書状を送っており(資2 尊経閣文庫所蔵文書七一号)、将軍を若狭の支配者として認め、直接それに結びつこうとする姿勢をみせている。また翌十二年正月に三好三人衆により京都が攻撃されたさい、将軍の拠る本圀寺を信長勢とともに警護して戦った山県源内・宇野弥七らも(『信長公記』巻二)、将軍への直接の奉公としてこの戦闘に参加していたものと思われる。しかし三方郡の粟屋勝久が、武田氏に背き朝倉氏援軍の攻撃を受けるなかで早くから信長と意を通じていたと思われるのをはじめ、この年四月に大飯郡の本郷氏やいまだ去就の定まらない治部助・広野孫三郎ら武田元明の近習である「三十六人衆」のもとに、領地安堵とともに一致団結を促す信長からの朱印状が届けられるころには(資2 本郷文書一七一号、資9 神明神社文書一号、『織田信長文書の研究』二二二号)、旧武田家臣たちはそのかなりの者が信長につく態度を明確にしていた。朝倉義景が信長に敵対する態度をみせるなかで、建て前として将軍支配となっている若狭について、信長は旧武田家臣をほぼ掌握することに成功していたのである。そして同時にこのことは、信長のもとに結集することで、分裂していた旧武田家臣たちに一つのまとまりを取り戻させることになった。翌元亀元年(一五七〇)四月二十日、信長は上洛要請を拒否した朝倉氏を討つため京都を出陣し、遠敷郡熊川へ進軍してくる。このとき旧武田家臣のうち、逸見昌経・山県秀政・白井勝胤をはじめ、内藤・熊谷・香川・寺井・松宮・畑田氏ら「国中に名有る侍ども」は一同に集まり、信長を熊川に出迎えたという(『若州国吉篭城記』)。二十三日に三方郡佐柿の粟屋勝久のもとに逗留した信長勢は、翌々日敦賀の朝倉勢に総攻撃をかけた。しかし近江小谷城主浅井長政の謀叛により、二十六日には金ケ崎城に木下藤吉郎を残して信長は京都へ退いた。



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