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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
     二 武田氏の滅亡
      元明の若狭脱出
 武田氏に合力して三方郡の粟屋勝久らを攻めていた越前の朝倉氏は、こうした状況の若狭に対して永禄十一年八月に遠敷郡まで兵を進め、遠縁となる元明を越前へ救出した(同前)。これをもって八代約一三〇年続いた武田惣領家による若狭支配は事実上終止符が打たれたことになる。若狭国はこの時点で形のうえで将軍支配とされたものと考えられ、遠敷郡賀茂荘本所方について森尊久の知行を妨げないよう白井氏や当所名主・百姓に対して(資2 白井家文書五一・五二号など)、また寺領安堵を求めた神宮寺に対して(資9 神宮寺文書五二・五三号)、幕府の奉行人連署奉書が発給されるようになった。しかし国内は、将軍支配となった以上、救出した元明を立てて朝倉氏が若狭を押さえることもできなくなり、大きな変化のないまま依然として混乱した状況が続いていたと思われる。
 そして八月の朝倉氏による若狭侵攻に引き続き、将軍義昭を美濃に迎えた信長が九月に義昭をともない上洛すると、国主を失い分裂・抗争を続けていた武田氏家臣たちは、元明を保護する朝倉氏と、将軍とともに上洛を果たした信長の、いずれの陣営につくかの選択をにわかに迫られることになった。こうして若狭は、内部崩壊のすえに、朝倉氏と織田信長による対立抗争の渦中へと巻き込まれていくことになる。



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