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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
     二 武田氏の滅亡
      三郡の状況
 武田氏による領国支配のもとで遠敷郡がその中心とされたのに対して、西の大飯郡高浜には逸見氏が、東の三方郡佐柿には粟屋氏が、それぞれ隣国への防備の役割を担って配置されていた。家臣の離反はこの両氏を中心に展開していく。
図045 武田氏の姻戚関係

図45 武田氏の姻戚関係


図46 主な武田家臣の配置

図46 主な武田家臣の配置

 天文二十一年(一五五二)正月、三好長慶に京都を制圧され出家した細川晴元は、縁者である武田信豊を頼って若狭に逗留し(『言継卿記』同年正月二十八日条、資9 羽賀寺文書二七号)、再起のための助力を要請した。熊谷勝直・粟屋牢人衆らの反乱を鎮めると、同二十三年に信豊は高浜の逸見昌経や和田の粟屋氏ら大飯郡の武士たちを丹後・丹波へ派遣し、晴元方丹波勢に合力して京都三好党の松永長頼と戦わせた。ところがこの間に、遠敷郡では信豊と義統との父子の争いが生じていた。弘治二年(一五五六)の内紛に続き、永禄元年(一五五八)七月には「当国引分」かれるという状況にまで及び、信豊は近江の六角氏を頼って出国し、態勢を整えて遠敷郡へ攻め込もうとする事態となったのである(資9 羽賀寺文書二七号)。この内紛は、信豊個人に仕えてきた近習である永元寺・宇野・畑田・笠間氏らと、武田惣領家の譜代であり義統を推す山県・上原氏らとの、信豊・義統それぞれの家臣間の対立を背景としていた。そして義統が家督に就くことになったのち、この対立は新たに武田元光の「隠居分」の知行をめぐる争いに形を変えて再燃したのである。領国支配の中心である遠敷郡においても、もはや武田氏による家臣統制力は失われ、家臣の分裂が生じていた。
 丹波・丹後へ出兵していた大飯郡の武士たちは、こうした状況をみて内紛に巻き込まれるのを避け、もはや小浜へ「出頭」しなくなった(同前)。そして逸見氏は家中の騒動をきっかけに、丹波に侵攻していた松永長頼と結び、永禄四年武田氏に対して反乱をおこす(『厳助往年記』永禄四年六月日条、資9 大成寺文書四号)。一方、三方郡佐柿の粟屋勝久ら同郡の武士たちも、病気になったとか所用ができたなどと称して惣領家へ「出頭」しなくなっていた(資9 羽賀寺文書二七号)。家臣の分裂は、こうして若狭三郡という地域の分裂となって現われた。そしてそれは三方郡において粟屋勝久を中心とする自立的な秩序が形成されたように、郡ごとの新しい秩序形成の動きでもあったのである。家督を継いだ義統は、大飯郡については縁者である朝倉義景の合力を得て永禄四年八月に逸見氏の反乱を鎮め支配は回復したものの(「当国御陳之次第」)、三方郡の粟屋氏らに対しては義景の合力を得つつ永禄六年から同十一年まで毎年攻撃を繰り返さなければならなかった(『若州国吉篭城記』)。丹後国加佐郡に続いて三方郡も、こうして武田氏支配から分離していったのである。
写真213 武田信方画像

写真213 武田信方画像

 遠敷郡・大飯郡においても、家臣間の抗争が止むことはなかった。永禄九年閏八月には、小浜の住人や義統の子である元明の擁立を企てる熊谷統直が蜂起するという反乱も生じている(『多聞院日記』同年閏八月三日条、資2 本郷文書一六五号、資9 大成寺文書八号)。義統を支持する遠敷郡の武田信方や大飯郡の逸見昌経・武藤友益らが出陣し、幕府奉公衆本郷信当の参陣もあって、この反乱はどうにか鎮められた(資2 本郷文書一六六〜一六八号)。しかし若狭国内は、武田氏家臣の離反・分裂が続き戦闘が繰り返されるという混乱した状況からもはや抜け出すことはできなくなっていた。
 松永久秀の謀叛により兄である将軍義輝を殺害され近江に逃れていた足利義秋(のち義昭)は、妹の嫁いだ義統を頼り同年八月二十九日に若狭へ入ったが(『言継卿記』同年閏八月一日条、資2国会図書館 古簡一号)、反乱がうち続き家臣統制力を失った武田氏をあきらめ、二日後には朝倉氏を頼り越前に赴かざるをえなかった。翌十年七月その義秋から、義統に代わり遠敷郡宮川を拠点に勢力を伸ばし武田氏の実権を握っていた庶子家信方に対して、越後上杉氏らとともに上洛随行の要請が出された(資2 尊経閣文庫所蔵文書六七号)。しかし信方はその要請を受け入れなかった。そのことは「国家」(公方や屋形を超えた公的秩序)に対する謀叛であるとされ、信方の年寄衆である白井氏らは宮川家中を引き退き、孤立した信方は山県秀政ら義統側近の家臣たちによって失脚させられる(同六八号、資2 白井家文書四八・四九号)。信方が失脚して間もなく、義統は三二歳でこの世を去った(仏国寺文書五号『小浜市史』社寺文書編、「神宮寺桜本坊日記」)。武田氏の親類や被官たちは「逆意」を企て「国中錯乱」した状況に陥り、幼少の元明が受け継いだ家督は「断絶眼前」の様相を呈していく(資2 朝倉文書一号)。若狭は内部崩壊の極に達していたのである。



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