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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    一 武田家臣の反乱
      領国経営の行き詰まり
 しかし信豊の家臣統制・在地掌握の施策は、必ずしも思いどおりに実現していったわけではなかった。永正十四年に領有した丹後国加佐郡においてたびたび同郡武士らの反乱がおこり、その都度鎮圧のために出陣しなければならなかったのをはじめ、河内・京都・丹波へも出兵しており(表48)、この国外出兵によって武田氏は自らの領国経営を不安定なものにしていたのである。軍勢派遣のたびに課される費用負担や陣夫役は在地の人びとの生活を圧迫していたし、台風・洪水・旱魃などの天災による被害も続き、天文二十年には百姓から徳政要求がおこりそれを実施している(資8 大音正和家文書二四二号)。在地社会は経済的に疲弊しつつあった。そしてこのことは同時に、在地からの得分確保により維持されている家臣たちの生活をも脅かしていた。さらに出兵した家臣たちに恩賞として与えられた土地は、武田氏自らが「少所候」と述べているように(資2 白井家文書四三号)、彼らを満足させるものではなかったであろう。また彼らへの俸禄である切米の支給さえも、その確保を目的に信豊によって始められた「千石憑子」が、一般的な頼母子と異なり銭の供出者へ元金が戻らないという性格をもっていたため二年で破綻したように(資9 羽賀寺文書二七号、明通寺文書一二七〜一三〇号)、不十分な状態であった。しかしこのような状況にもかかわらず、武田氏は畿内近国大名の一人として国外出兵を繰り返さねばならなかった。こうした武田氏による領国経営の行き詰まりに対して、武士や百姓たちはそれぞれに不信と不満を募らせていたと思われる。その表われの一つが家臣による反乱であった。

表48 武田氏による主な国外出兵

表48 武田氏による主な国外出兵

 反乱はさらに繰り返された。天文二十年の夏には丹後国加佐郡代官の殺害を発端として、武田氏支配により所領を奪われていた加佐郡「不知行ノ衆」らが、郡内所々に城郭を構えて武田氏に反旗を翻した(資9 羽賀寺文書二七号)。この反乱以降加佐郡は、白井氏知行の所領が同郡武士らに押領されたり、また丹波勢と京都三好党との戦闘の影響が及ぶなかで(資2 白井家文書五・四一・四二号)、武田氏支配から分離していくことになる。
 翌二十一年三月には、加佐郡武士らの鎮圧のため武田氏が軍勢を丹後へ派遣している間隙をついて、天文七年の反乱以降冷遇されていた粟屋元隆一族の牢人衆が遠敷郡で蜂起し、武田氏家臣熊谷勝直もこのとき武田氏の意に背いて反旗を翻した。さらにこうした情勢をみて、八月には再び越前の武田信孝が敦賀まで陣を寄せる事態になったのである(資9 羽賀寺文書二七号)。宮川の庶子家武田信方らの出陣や朝倉教景らによる信孝への説得が効を奏し、ようやくこの事態は鎮められたものの、このような家臣の反乱は徐々に武田氏による領国支配がその破綻の色を濃くしつつあったことを示している。そして弘治年間(一五五五〜五八)以降になると、家臣たちは武田氏から離反したり自分に有益な惣領後継者をめぐり家督相続争いを引き起こし相互に対立するなど、若狭は内部分裂の様相を呈していく。



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