しかし信豊の家臣統制・在地掌握の施策は、必ずしも思いどおりに実現していったわけではなかった。永正十四年に領有した丹後国加佐郡においてたびたび同郡武士らの反乱がおこり、その都度鎮圧のために出陣しなければならなかったのをはじめ、河内・京都・丹波へも出兵しており(表48)、この国外出兵によって武田氏は自らの領国経営を不安定なものにしていたのである。軍勢派遣のたびに課される費用負担や陣夫役は在地の人びとの生活を圧迫していたし、台風・洪水・旱魃などの天災による被害も続き、天文二十年には百姓から徳政要求がおこりそれを実施している(資8 大音正和家文書二四二号)。在地社会は経済的に疲弊しつつあった。そしてこのことは同時に、在地からの得分確保により維持されている家臣たちの生活をも脅かしていた。さらに出兵した家臣たちに恩賞として与えられた土地は、武田氏自らが「少所候」と述べているように(資2 白井家文書四三号)、彼らを満足させるものではなかったであろう。また彼らへの俸禄である切米の支給さえも、その確保を目的に信豊によって始められた「千石憑子」が、一般的な頼母子と異なり銭の供出者へ元金が戻らないという性格をもっていたため二年で破綻したように(資9 羽賀寺文書二七号、明通寺文書一二七〜一三〇号)、不十分な状態であった。しかしこのような状況にもかかわらず、武田氏は畿内近国大名の一人として国外出兵を繰り返さねばならなかった。こうした武田氏による領国経営の行き詰まりに対して、武士や百姓たちはそれぞれに不信と不満を募らせていたと思われる。その表われの一つが家臣による反乱であった。 |