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 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    一 武田家臣の反乱
      乱後の施策
写真212 武田信豊書状(妙光寺文書)

写真212 武田信豊書状(妙光寺文書)

 元隆は丹波において再起を果たせないままであったと思われ、その後の動向は詳らかではない。ともかくも反乱を鎮圧した信豊は、領国支配の立直しを図って新たな施策を打ち出していく。まず元隆の就いていた小浜代官には山県源三郎が、名田荘には給人として梶清仲が据えられた(『天文日記』天文七年十一月九日条、資2 真珠庵文書七九・八一号)。また遠敷郡において名田荘とともに粟屋一族の拠点となっていた宮川に、やがて庶子家の武田信高が入部するのもこの施策の一環であろう。さらに信豊は元隆のあと粟屋光若を奏者として重用し、粟屋氏のうち元隆の系統については徹底して排除しようとした。こうした人事の変更に加え、信仰を通じて在地の人びとと結びつく寺院に対しても統制の手が加えられていったと思われる。元隆が保護した長源寺には信豊の子息日感が入寺しており(仏国寺文書五号『小浜市史』社寺文書編)、法華宗徒へ監視の目が注がれた。羽賀寺や万徳寺などを新たに祈願所に定めたのも、密教へ信仰を寄せる在地の人びとの掌握を意図したものと考えられる。またこの元隆の反乱のさい武田氏と本願寺との連絡役として動いた一向宗妙光寺に対して、祈願所と同じように今後買得した土地についても自動的に安堵される特権を保証しており(資9 妙光寺文書六号)、その保護を通じて国内の一向宗門徒の懐柔をも図っていったと思われる。
 こうした施策の展開と並行して、天文八年信豊は従五位下・伊豆守に叙されるとともに(「歴名土代」)、同十七年には将軍義晴の娘を子息信統(のち義統)のもとへ嫁がせることに成功した。そしてこの年、彼は小浜八幡宮に大鳥居を寄進したといい(「若狭郡県志」)、多くの人びとの見守るなか盛大な祝賀行事が執り行なわれたことであろう。反乱後の施策を進める一方で、武田氏は家臣や在地の人びとに対し、こうした形で自らの権威を誇示していった。



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