目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    一 武田家臣の反乱
      元隆の反乱
 武田氏は、他国との戦闘や家臣の反乱がおきたさい、その鎮圧を図るうえで幕府や朝廷からの援助を期待することができた。しかしその代わりに、畿内近国の大名の一人として幕府や朝廷からの軍勢催促や財政上の費用負担に応じなければならなかった。また朝倉・六角氏など近隣の大名とも婚姻関係を通じて相互に結びつきをもち、「入魂」「合力」による軍事援助を彼らに求めることができたが、逆に要請を受け出兵する必要もあった。こうした関係を背景に、また若狭が京都に近いという地理的条件もあって、武田氏は中央の政治動向の影響を受け、たびたび国外への出兵を余儀なくされた。そしてこの国外出兵などにより領国支配の中枢を担う粟屋家長・内藤国高・熊谷監物らの有力家臣が相ついで死去していくなかで(本章一節五、三節三参照)、武田家臣中における元隆の存在はさらに大きなものとなっていった。
 小浜代官に就任したころには、彼は小浜の背後にひかえる広大な荘園名田荘をも支配し自らの拠点としており(『大徳寺文書』四二三号など、資8 大音正和家文書二三九号)、小浜代官として支配する今富名と合わせると、武田氏領国支配の中心である遠敷郡のなかで、その主要部を押さえていたことになる。武田家中で最強といわれた粟屋党の軍事力を掌握していたことも(『言継卿記』・『公頼公記』大永七年二月十二日条)、彼の立場を優位なものにしており、彼は武田家臣中において最大の勢力をもつにいたったと思われる。そして天文七年の武田元光とその子信豊との家督相続をめぐる内紛に絡んで、小浜代官元隆はついに反乱の兵を挙げた。彼にとってこの挙兵は、領国支配権の奪取という野望実現のための、以前から周到に手はずを整えたうえでの行動であったと思われる。
写真211 「羽賀寺年中行事」(羽賀寺文書、部分)

写真211 「羽賀寺年中行事」(羽賀寺文書、部分)

 六月から七月にかけて名田荘を拠点に元隆が小浜へ攻撃を続けるなかで、西からはこれに呼応して、天文四・五年と反乱を繰り返したため武田氏の攻撃を受けていた丹後国加佐郡の武士や、それと結んだ大飯郡高浜の逸見氏が挙兵した(資9 羽賀寺文書二七号)。また東からは朝倉氏に身を寄せていた武田信孝が、朝倉家臣山内氏を語らい若狭に迫る情勢となったのである(『天文日記』同年九月二十九日条)。初めて領国支配の拠点である遠敷郡において家臣の反乱が勃発したことは武田氏に大きな動揺を与えたと思われるが、さらに東西からも反乱勢が呼応したことで、事態は武田氏の領国支配を揺るがしかねない緊迫した状況へと発展していった。こうした若狭の情勢は京都にもいち早く伝えられた。禁裏料所の一つとして小浜から貢租を徴収している朝廷や、同じく若狭にも料所をもつ幕府、所領を有する公家・寺社にとっても、見過ごすことのできない事態にいたったのである。幕府は若狭に所領をもつ公家からの言上を受けて九月に、丹波国を支配していた細川晴元に対し、名田荘を七月下旬に没落し丹波で態勢を立て直し若狭へ攻撃を続けようとしている元隆に家臣が同調するのを制止するよう使者を送る一方(『大館常興日記』同年九月八・十・十三日条)、越前朝倉氏に対しても武田信孝の乱入を制止するよう命じている(同 同年九月二十日条)。武田氏も自ら本願寺証如に働きかけ、信孝に同調して朝倉氏が若狭侵攻の動きをみせたときは、加賀の一向宗門徒を越前へ動かし牽制するよう申し入れた(『天文日記』同年九月二十九日条)。幕府や本願寺からのこのような援助もあって、十月に信孝は越前へ兵を戻すことになる。信豊は七月に自ら名田荘へ出陣し(資9 羽賀寺文書二七号)、また十一月には家臣白井氏らを派遣して丹後国加佐郡を鎮圧した(資2 白井家文書二七号)。小浜代官粟屋元隆の反乱は、この年の暮れにようやく鎮められたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ