目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第四節 朝倉・武田両氏の滅亡
    一 武田家臣の反乱
      小浜と粟屋元隆
写真210 後瀬山からみた小浜

写真210 後瀬山からみた小浜

 北は津軽・越後、南は山陰・北九州・朝鮮からの船が入港するなど、小浜は日本海における活発な物資輸送を背景に、南北朝期以降、貿易港として大きな発展を遂げていた(五章二節参照)。京都へ向けての物資輸送などに携わる問丸をはじめとした商人たちの活発な商業活動は大きな経済力をこの地に蓄積させ、それは近隣の村・浦に住む人びとにとっても、地域交易の中心地としての小浜が担う役割を高めていた。中・今・石屋・塩浜・八幡・松寺などの小路が整備され、人びとの居住地のなかには絹屋・伊賀屋・近江屋・大文字屋・紙屋といった商家が店を構えて、職人や大陸から渡ってきた「唐人」たちも生活するようになるなど、小浜は「都市」として人口増加が進んでいた。そして当時の若狭において密教への信仰が広く在地社会に浸透していたのに対し、小浜には法華・一向宗などの寺院の多くが集中しており、その教圏拡大の拠点ともなっていたのである(『若州管内社寺由緒記』)。またこの地において、例えば文亀二年(一五〇二)六月武田氏が段銭を賦課したさい、「国衆」は段銭納入拒否の態度を示すため小浜に結集して武田中務大輔・同弥五郎の親子を殺害しており(『実隆公記』同年六月二十日条)、享禄四年(一五三一)に若狭三郡惣百姓の代表三人が武田氏に徳政を要求しそれを認めさせたときも、塩浜小路の紙屋にその本部が設けられていた(資8 大音正和家文書二三五号)。小浜は日本海交易の中心であると同時に、武田氏領国における政治・経済・文化の中心地でもあったのである。武田氏は大永二年(一五二二)、この地を見渡す後瀬山に城を構えている。
 領国支配の安定を求める武田氏にとって、小浜を統治することは重要な政治課題の一つであった。そしてその役割を担ったのが、管轄下の税所を通じて若狭一国の段銭・守護要銭を徴収する権限を有するとともに、小浜を含んだ遠敷郡内の主要部である今富名を統轄した小浜代官であった。粟屋元隆がこの職に就いたのは、永正年間(一五〇四〜二一)末ごろと思われる。まもなく彼はその権限を行使して統治に乗り出すことになる。大永三年八月、青苧座の本所権をもつ三条西実隆の依頼を受けた元隆は、越後から苧(青苧)を輸送してきた越後舟一艘・若州苧舟四艘・若州舟一一艘を小浜の湊に押し置き、荷の陸揚げを差し止めて実隆への上納金を要求しており、苧商人は「万疋」を支払い和解を図っている(『実隆公記』同年八月六・二十九日・九月三日・十月十三日条)。元隆は、湊における統轄的な管理や湊の治安維持にあたっていたと思われる。また小浜と近江今津を結ぶ九里半街道において、近江六角氏の保護を得て活動する同国蒲生郡の保内商人を高島郡の五ケ商人や今津馬借たちが排除しようとしたとき、五ケ商人たちは小浜代官である元隆と結んでいる(資2 今堀日吉神社文書五〜七号)。元隆はこうした紛争の生じたさいに関与し、小浜の市場における商人の活動や流通路の利用など小浜を中心とした商業活動についても影響を及ぼした。さらに今富名をはじめとする税所管理下にある土地についても権限を有しており、それらが寄進・売買・譲渡されるさいには領主である元隆の袖判を据えた補任状が新たに必要とされた(資9 妙楽寺文書九・一〇号)。このように小浜を中心として統治を行なうなかで、天文二年(一五三三)に元隆は小浜に住む武士や商人たちが信仰を寄せる法華宗長源寺に対して自ら禁制を発して保護を加えており(資9 長源寺文書一九号)、小浜代官は小浜を含む今富名については独自の権限を行使して支配にあたっていたと思われる。京都本願寺が武田惣領家とともに小浜代官に対しても贈物を届けることを慣例としていたように(『天文日記』天文六年五月十三日、同七年十一月九日、同二十三年六月十日条)、この職は武田氏領国支配のうえで重要な役割を担う職として認識されていた。元隆はこのころ小浜代官として、領国支配のなかで独自な立場を築いていたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ