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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    四 領民支配
      年貢・公事の収取
 武田氏あるいはその被官人らが単位所領ごとに農民から収取した年貢・公事の実態を明らかにする史料は、戦国期についてはほとんど得られない。ここではごくわずかな例を拾って、可能な範囲でその様相をみておくこととする。
 太良荘本所方は応仁以前はともかくも領主東寺の直務が続けられていたが、戦国期に入ると守護請に移行し、東寺の支配は在地から完全に遊離した。したがって太良荘の農民らが年貢・公事などを納入する直接の相手は、半済方はもちろん、本所方についても武田氏被官ということになったのである。この時期の太良荘本所方に関して、農民の年貢・公事負担の実際がどうなっていたかを示す貴重な一通の史料が在地側に伝えられて残っている。天文二十年九月十四日付の太良荘本所方惣百姓指出案である(資9 高鳥甚兵衛家文書一七号)。その内容を整理して示せば、表47のとおりである。

表47 天文20年の遠敷郡太良荘本所方の年貢・公事

表47 天文20年の遠敷郡太良荘本所方の年貢・公事

 太良荘は、武田氏入部後は半済方を山県氏が、また本所方については応仁の乱以降桑原氏が支配していたが、天文二十年には本所方も合わせて、武田氏の被官で同荘東側の山頂に位置する賀羅岳城の城主であった山県氏が支配していたことが知られる。彼は「殿様」とよばれており、荘内に竹藪や山を所有し、公事給を与えられる八人の百姓を中心とする本所方の農民らを自身の直接支配下に置き、年貢米・地子銭・段銭・公事を徴収していた。この時期に請所化した荘園郷保の土地・農民は、太良荘だけに限らずどこでも類似の形で大名武田氏の支配下に入っていたのが通例であろう。委細を物語る史料を欠いてはいるが、例えば幕府料所宮河保における粟屋元行、徳禅寺領名田荘における粟屋元隆など、いずれも太良荘の山県氏と相似た状態でそれぞれの荘保に臨んでいたものとみなして的外れではないと思われる。
 しかし他面この指出は、土地や農民に対する武田氏の支配が、質的には旧来の荘園制的な枠組からほとんど抜け出していないことを明白に物語っている。長禄元年(一四五七)には荘内の山王社(日吉十禅師社)の四月神事の酒肴料五斗が本所方と半済方で隔年に支給されるようになるなど(ハ函三〇三)、在地では本所方と半済方が支配の枠を越えて一体化しつつあったにもかかわらず、本所方と半済方という区別が依然として解消せずに残存していること、年貢米は「三名半之本役」や「保一色之本役」、あるいは「地頭田分」として負担されており、「預り所之御本役」が存続しているなど、鎌倉期にこの荘園にできた体制が基本的に踏襲されていること、それらはいずれも荘園制の残滓に他ならない。太良荘から東へ尾根一つ越えたところに位置する宮河荘の場合は、半済が行なわれてはいたが、残る本家・領家の知行分については戦国期にも賀茂社の直務支配が継続しており、その点では太良荘とは異なっていた。したがってそこでは旧来の支配体制が存続していて、明応二年二月十三日の本家方年貢算用状によると、七二石余の年貢米が名田・散田・小佃などの単位から出されており、畠地子があり、夫銭・節句銭・油銭・畠上葉銭その他の公事が賦課され、同荘付属の浦である矢代浦からは浦方御年貢として各種の海産物が上納されていた。もちろんここでも段銭の賦課は例外なく認められるが、全体に賦課形態が荘園制的なものであることは一目瞭然である(「賀茂別雷神社文書」)。ところが荘園領主の直務が消滅した太良荘の場合も、これと比較して全く質的な差異は認めがたいのである。
 恒常的課税となった段銭のような新たな税目を定着させた面はあるにせよ、多分に形骸化した荘園制支配の枠組を突き崩すにはいたらず、むしろそれを利用せざるをえなかったところに武田氏の領国支配の限界があったといわねばならない。



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