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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    四 領民支配
      所領知行の形態と性格

 若狭の守護となった武田氏は、以前からの守護領である小浜を含む今富荘、多烏浦を含む遠敷郡西津荘、大飯郡佐分郷などを支配するとともに、寺社本所領荘園の半済を恒久化し、文安元年(一四四四)以来は各荘園の代官職の知行を幕府に要請して認められた(三章二節六参照)。戦国期に入ってもこの状態は継続し、荘園への侵害はより強化されたし、守護段銭の賦課も常態となった(本節一参照)。
 荘園の半済分は通常、個別の荘園ごとに家臣に対する給知として与えられた。例えば遠敷郡太良荘の半済給人は山県氏であったし、同郡宮河荘(賀茂荘)の半済分は白井氏が知行した(資2 白井家文書九号)。また、大飯郡加斗荘の半済分は寺井賢仲が給されている(「飯盛寺文書」『大飯郡誌』)。
 諸荘園の本所方の代官職もこのようないきさつがあって、任免権は一応荘園領主にあるにせよ、多くの場合に武田氏被官人が競望してそれに補任された。若干の例を拾うと、文明二年(一四七〇)十二月、逸見宗見が遠敷郡玉置荘一分方代官職を競望し、直務支配しようとする荘園領主側が認めようとしなかったが、結局は宗見を補任せざるをえなかった(『親長卿記』同年十二月十八日・同三年正月十一日条)。明応九年(一五〇〇)当時、加斗荘本所方の代官職は粟屋賢家が知行していたと思われる(資9 飯盛寺文書四号)。また伏見宮家領の遠敷郡松永荘の代官職は、永正元年(一五〇四)九月に粟屋親栄が補任され、同四年に彼が戦死するまで知行していた(『実隆公記』)。永正年間末ごろから天文七年(一五三八)にいたるまで、粟屋元隆が徳禅寺領の遠敷郡名田荘を請所とし、公用銭五〇〇疋を運上しているし(『大徳寺文書』四二一〜四二五号など)、天文九年当時には、熊谷弾正大夫勝直が幕府料所である遠敷郡安賀荘の代官職を所有し、公用銭を幕府御倉へ納入している(『大館常興日記』)。同じころ同郡宮河保は武田氏の請所となっていて、元光の代官粟屋左京亮元行が公用銭進納にたずさわっている(同、資2 京大 狩野蒐集文書一号)。
 かくして武田氏の領国若狭の諸所領にあっては、直接農民を支配し年貢・公事の収納にあたるのは、荘園領主が直務支配権を維持していた場合に例外はみられるものの、ほとんどの場合は武田氏の被官であったということになる。彼らにとって半済給主となり諸荘園の代官職などに補任されることは一種の利権の掌握であり、農民からの収取を通じて彼らは自己の経済力を強めたのである。戦国期の武田氏被官のなかにしばしば高利貸的活動をした者がいることは、その意味で注目される。
 文明五年九月の青蓮院門跡雑掌申状によると、故庁法印経尭が武田氏被官大塩三河入道から借りた三〇〇〇疋(三〇貫文)の銭が、「利々倍々」となってついに二万疋(二〇〇貫文)に及び、これを門跡領に懸けて責め取られたという(「政所賦銘引付」)。同七年九月には、幕府料所富田郷の公文で遠敷郡野木の住人片山太郎左衛門尉正次から、賀茂別雷社社司森満久が社領宮河荘の年貢を抵当にして借用した五〇貫文について、本利相当分を同荘の年貢から正次が収納することが幕府によって認められた(同前)。翌八年八月には、若王子社領の遠敷郡瓜生荘の下司沼田弥太郎光延が、宝徳二年(一四五〇)に下司職にかかわる重書を一〇貫文の質物に入れ置き、約月の晦日の夜に銭主の武田氏被官中村某から受け取るべく申し入れたところ、中村はすでに質流れになったと称して関係所々を押領し、幕府の下知によってそれは返付したものの、なお重書は惜しんで離さないとして訴えている(同前)。文明八年十二月には、この年八月に死去した瓜生荘の定使の個人的な借財に関して、武田氏被官の熊谷四郎左衛門尉直俊が、銭主と号していわれなく本所の年貢からこれを取り立てようとして数十人の使をもって譴責したという(同前)。また先にもふれたが、同十五年五月には、逸見三郎国清が醍醐寺妙法院に対して亡父駿河入道宗見の用立てた本銭二三三貫文について、本利相当分を質券地である丹後国朝来村上方と遠敷郡末野村の年貢のうちから弁済するよう訴えている(同前)。武田氏被官人らがかなりの財力を有し、これを利貸しに運用していた事実は紛れもないところである。その富の主たる源泉は彼らの握る所職、つまりは農民からの収取にあったとしなければならないであろう。




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