目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    三 領国支配機構
      在国支配機構
 応仁以前、武田氏の若狭における支配機構の頂点に位置したのは守護代であり、内藤筑前入道昌廉およびその子と目される内藤筑前守がその任にあったが(三章二節五参照)、戦国前期においてもこの体制は引き続き存在していたと思われる。文明九年八月、武田国信からの使者が皇室領小浜の年貢の件について「国の儀有名無実の間、毎々他足を以て進納の由、国の代官申さしめ候、然ごときの儀により、聊か遅々せしめ候」と口上を述べているが(「兼顕卿記」同年八月六日条)、この「国の代官」とは守護代を意味するのであろう。同四年五月六日付で、明通寺に対する勘料賦課について「直進有るべきの上は、国の催促を止めらるべし」と命じた粟屋賢家奉書の充名にみえる内藤修理亮は、この当時の守護代とみなされる(資9 明通寺文書七二号)。そののちは延徳三年九月三日、明通寺の陣僧は免除であるから催促を停止せよという元信の命を奉じた粟屋賢家奉書の充名に出現する内藤筑前(同九一号)、明応九年八月十五日に神宮寺との千部経読誦の座次をめぐる相論について、明通寺寺僧に対し出京を命ずる在京奉行人奉書の充名にみえる内藤修理亮賢高と(同一〇二号)、いずれも内藤氏がその地位を保持したようである。しかし戦国期の史料には守護代という役職名自体が全く見当たらず、また右の例のように勘料や陣僧の催促停止について単独で奉書を出している粟屋賢家は、彼自身が守護代の立場にあって在京していた可能性も考えられ、この時期の守護代の権限・在職者ともに明らかにならない点が多い。小守護代にいたっては皆目不明である。そしてやがて元光の時期以降ともなると、在国体制の常態化あるいは守護の戦国大名化とともに、守護代・小守護代のような職掌はなくなってしまったのではないかと推察される。
写真206 内藤廉貞書状(明通寺文書)

写真206 内藤廉貞書状(明通寺文書)

 三郡に郡司を置く体制も、少なくとも戦国前期には依然継続したものと思われる。年未詳であるが、武田大膳大夫入道(元信)に充てた八月三日付の青蓮院尊応書状に、「山西郷名主喧嘩の儀に就き、郡代として伊与法眼被官数日召し置くの由注進、先ず以て驚き入り候」とある(資2 谷森淳子氏所蔵文書一号)。ここにいう郡代とはおそらく三方郡司もしくはその代官をさすものと思われ、武田氏が郡司を置いていたことの徴証とみてよかろう。しかし、三郡とも在職者はほとんど明らかにならない。延徳四年の元信の近江在陣中に、明通寺に対して陣からの催促があったから陣僧銭を使者に渡すよう伝達したり(資9 明通寺文書九三号)、明応九年八月には内藤修理亮賢高充てに出された奉行人連署奉書を明通寺に示して、千部経読誦座次の相論のため事情に通じた寺僧の参洛を促している内藤加賀守(はじめ八郎右衛門尉)廉貞は(同一〇三号)、遠敷郡司ではなかったかと推察される。また文明十一年五月に、三方郡倉見荘浦役銭のうち一〇貫文を国信の中間給分として渡すよう粟屋賢家から指示されている熊谷修理亮直継や(資8 大音正和家文書一五三号)、明応三年に三方郡藤井保天満宮の猿楽楽頭職の継承に関する気山左衛門三郎の訴訟を裁いている熊谷氏は(資8 江村伊平治家文書五号)、おそらく三方郡司であろう。
 在京奉行が機能していた時期、それと対応する形で在国奉行も応仁以前に引き続いて置かれていたものと思われる。長享二年十二月、土御門家領に対する段銭催促の停止を命じた在京奉行粟屋賢行の奉書を受けている則光佐渡入道のごときは(資2 若杉家文書一四号)、在国奉行の一員と考えるべきであろう。しかしその全体像を十分に明らかにするのは難しい。
 このほか、戦国期を通じて小浜には小浜代官が置かれたとみられる。早くには文明六年七月、越後の青苧をめぐる係争に関して「若州小浜津代官内藤佐渡入道方」へ幕府奉行人奉書が発給されたことが知られ(「政所方書」)、戦国中期の大永・享禄(一五二一〜三二)のころには、粟屋右京亮元隆がその任にあった(資9 西福寺文書一〇号、資2 今堀日吉神社文書六・七号)。領国の中心都市であり、日本海側屈指の港津でもある小浜の重要性に鑑み、重臣が配されていたのである。これは時に「今富代官」と称されることもあったと思われる(資9 神宮寺文書五八号)。その下に税所代がいた。元隆と同じ時期には、永井氏(忠家か)が在職している(資9 羽賀寺文書二七号)。
 武田氏が在国体制をとり、戦国大名に転化したとみられる元信の晩年ないし元光の治世以後になると、領国支配機構もおのずからそれ以前とは違ったものになったとみるべきで、当然ながら重臣クラスが在京奉行を務めるような体制は存在しなくなる。戦国後期の武田氏は、領国内の要所にそれぞれ城を築いて配置された有力被官層がそれぞれの領域を知行するとともに、奉行人あるいは奏者として随時後瀬山城に出仕して施政に参画したり当主の命を奉ずるような体制に移行していたと思われる。ただしその支配機構が十分強固に構築されていたとは考えにくい面がある。



目次へ  前ページへ  次ページへ