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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    三 領国支配機構
      武田氏の在京雑掌
 長享元年十二月十一日の夜更け、京都西大路辺(京都市上京区)にあった武田氏被官の寺井伯耆守賢仲の私宅から出火し、西大路がほとんど焼失するという大火があった(『後法興院記』同日条、『蔭凉軒日録』同日条)。寺井賢仲の私宅は八か所、棟数一三という広壮な屋敷であったが、すべて焼失したという(『蔭凉軒日録』同年十二月十四日条)。この寺井賢仲は国信・元信の時期の武田氏腹心の一人であるが、前述の在京奉行人らと一まとめにはしがたく、彼らとはまた違った意味で武田氏にとって重要な役割を果たした存在であった。
 文明十八年に幕府が若狭本郷の地を本郷政泰に返付したとき、武田宗勲(国信)がこの件に関して吉田民部大輔充てに送った書状に「委細の旨寺井伯耆守申候」とあり(資2 本郷文書一〇六号)、賢仲が国信側近の臣であったことが知られるが、また先にもふれたように、同年九月に武田氏がそれまで押さえていた仁和寺真光院領の返還を承諾したとき、荘園領主側との折衝にあたり、半済分は渡すが一円返還はできないと述べたのは「守護雑掌」寺井、すなわち賢仲であった(『十輪院内府記』同年九月二十八日条)。このころ諸大名は京都に常駐する特定の家臣に出先機関としての役割を果たさせる場合があり、これを雑掌と称したが、寺井賢仲こそは武田氏の雑掌だったのである。彼が朝廷・室町幕府とほど遠からぬ場所に広壮な邸宅を構え、文明から明応年間(一四六九〜一五〇一)にかけてのころ、私宅で歌会や連歌会を何度も催し、また各所のそれにしばしば出座して、飛鳥井栄雅(雅親)・同雅康・中院通秀・勧修寺教秀・同政顕・滋野井教国・三条西実隆・甘露寺親長・姉小路基綱・小槻長興らの文才に秀でた一流の公家たちをはじめ、杉原伊賀守賢盛のような幕臣や諸大名の被官、あるいは宗祇・兼載・肖柏・宗長らの著名な連歌師らと親交があり、自ら文芸の達者として名を知られていたことは(六章四節二参照)、まさしく在京の雑掌たる地位と役割にふさわしい活動であったといってよい。長享元年閏十一月に飛鳥井宋世(雅康)が将軍義尚の近江鈎の陣中で三十首続歌を張行したときも、寺井賢仲は武田宗勲(国信)や大館尚氏・高倉永継・姉小路基綱らとともに列席して詠歌している(「古文書集」四)。
写真204 大飯郡加斗荘

写真204 大飯郡加斗荘


写真205 三方郡竹波

写真205 三方郡竹波

 彼は時として直接在地支配に関わった形跡をも遺している。明応九年十月二十一日付で、飯盛寺に対して大飯郡加斗荘黒駒宮篭所僧食米ならびに同荘半済方所属の諸寄進地に関して、文明十六年の火災で支証(証拠文書)が失われたが当知行に任せて末代まで安堵する旨の判物を発給しているのはその例である(「飯盛寺文書」『大飯郡誌』)。これは彼が加斗荘の半済方給主であったことを意味している。これより先の延徳二年六月、彼が小浜西福寺へ敷地を寄進していることも注目してよい(資9 西福寺文書一号)。しかし彼の主たる活動は、前述したような在京外交官としての分野においてであったということができる。彼の地位が重んぜらるべきものであったと判断されるにもかかわらず、当該期の奉行人連署奉書などのなかにその名を見出せないのは故のないことではなかろう。なお文明十五年六月に将軍義政が落成した東山山荘へ移ったとき、在京しない宗勲(国信)に代わって進物を届けた逸見三郎国清もまた、「雑掌」とよばれていることは前述した(本節二参照)。賢仲と時期的に重なっており、両者の関係は判然としないが、逸見国清の場合は臨時に宗勲の留守を預かる責任者であった可能性が濃い。賢仲は晩年老齢の故か帰国しており、やがて病を得て永正十二年の暮に没したが(『再昌草』)、あたかも彼と交替するように、その前後から雑掌として活動した人物に吉田四郎兵衛尉氏春がいる。 『実隆公記』永正五年四月十日条には、「早朝武田雑掌男吉田四郎兵衛来る、夜前の事等を語る、室町殿殊なる御事無しと云々」とある。「夜前の事」とは、細川高国が挙兵して京都に迫り、同澄元や三好之長らが近江に走ったこと、土一揆蜂起のことなどをさしている。同月十四日条にも「武田雑掌男吉田来る、世間の儀大略大破に及ぶべきか、武家御合体の事已に破れ了んぬる由これを語る」とあり、「近日旧将軍御入洛必定」との情報を伝えたという。同月二十九日条には、「武田雑掌吉田男来る、国の事等これを語る」とある。翌六年春には、引退して在国していた寺井伯耆入道宗功(賢仲)が、実隆に「かげふかくのこる老木の山桜世にもしられずくちやはてなん」という歌を贈ったのに対し、氏春が「和しつかはせと」すすめ、実隆が賢仲の歌に和したということが『再昌草』にみえる。以後彼は極めて頻繁に実隆のもとに出入りし、京都・若狭を上下して、しばしば若狭の海産物をもたらし、元信らの文芸受容を仲介し、自らも古典の講筵や歌会に列するなど、多様な活動の跡をとどめている。永正十年十二月に皇室領遠敷郡上吉田村の逃散百姓の還住と年貢公事の上納が守護武田氏に命ぜられる事件があったが、このときも在京の雑掌として氏春が事にあたっているし(「守光公記」永正十一年正月二十七・二十八日条)、同十七年に三方郡の丹生浦と竹波との網場相論が幕府法廷にもち出されたときも、訴人・論人(被告)双方の代理人をともなって幕府公人奉行飯尾貞運宅へ出頭し、証人としての役割を果たした(資8 丹生区有文書五〜一一号)。これらの徴証から、武田氏の出先機関であり、情報通の外交官ともいうべき雑掌氏春のあり方を十分にうかがうことができよう。
 こののち元光・信豊の時期に現われる吉田四郎兵衛尉光慶も、氏春と同様の地位にいた人物である。かつて永正七年十一月一日には、父氏春にともなわれて初めて三条西実隆邸を訪れた八歳の少年長寿丸がいたが(『実隆公記』同日条)、光慶はおそらくその成人した姿であろう。実隆は天文三年(一五三四)正月十日に吉田四郎兵衛からの旧冬の書状と海鼠腸五桶を受け取っており、同月二十二日には扇子とともに四郎兵衛への書状を遣わしているが、この四郎兵衛は光慶であると思われる(『実隆公記』)。天文六年二月二十二日の武田宗勝(元光)の幕府内談衆大館晴光に対する祝儀の返書に「猶吉田四郎兵衛尉申すべく候の条、詳に能わず候」とあり(資2 木村文書一号)、翌七年二月十四日付の大館常興充ての武田信豊書状にもほぼ同様の文言がみえるが(資2 成簀堂文庫所蔵文書四号)、このような例は、光慶が在国する武田氏にとって京都における代理者としての役割を務める存在であったことを雄弁に語っている。武田氏が請所としていた幕府料所の遠敷郡宮河保の公用銭収納に関しても、彼が幕府関係者と武田氏側との間の取次役を務めていた(『大館常興日記』)。
 戦国期を通じて武田氏の在京雑掌の果たした役割は、外交面でも領国支配の面でも重要なものがあったといわねばならない。



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