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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    三 領国支配機構
      戦国前期の在京奉行人
 戦国前期の元信の時期までの武田氏は在京を原則としたから、領国支配にあたっては応仁以前と同様に在京奉行人が重要な役割を果たしたとみられる。
写真203 武田氏奉行人連署奉書(渡辺六郎右衛門家文書)

写真203 武田氏奉行人連署奉書(渡辺六郎右衛門家文書)

 この時期の武田氏の領国支配関係文書にあっては、それまでと同様に奉行人連署奉書が大きな比重を占めており、例えば信賢の時期には、応仁二年(一四六八)五月の明通寺に対する陣僧催促の停止、文明元年(一四六九)八月の同寺の陣僧勤仕に関する命令のそれぞれが、いずれも奉行人連署奉書をもって伝達されている(資9 明通寺文書六六・六九号)。国信のときにも、長享二年(一四八八)十二月の明通寺陣僧役免除や延徳元年(一四八九)十月の飯盛寺当知行地の認証などの例が知られる(同八六号、資9 飯盛寺文書二号)。元信のときは、翌二年閏八月の明通寺に対する武田氏祈願寺たる地位の安堵(資9 明通寺文書八八・八九号)、明応九年(一五〇〇)八月に神宮寺と明通寺が千部経読誦の座次をめぐって争ったときの明通寺僧に対する出京命令(同一〇二号)、永正五年(一五〇八)十二月の神宮寺を彦次郎(元光)の祈願寺としたのにともなう諸役免除の伝達(資9 神宮寺文書二六号)、同十六年八月の温科元親給所内田地に関する元親と神宮寺の相論の裁許結果通達などにさいして(同三〇号)、これが用いられている。ついで元光の治世の初期である翌十七年十二月の常満保菊一名・八幡宮供僧職等に関する神宮寺と明王院の相論の裁許結果の伝達(同三三号)、大永二年(一五二二)十二月の三方郡日向浦と山庄浦との網場相論に関連する、前者への赤石山の安堵通達なども同様である(資8 渡辺六郎右衛門家文書二一号)。すべて「仍執達如件」の文言で書き止められ、内容の軽重などにより竪紙奉書と折紙奉書とが使い分けられていたことは、室町幕府奉行人奉書と変わりがない。領国内の特定の寺社などに伝存する限られた文書を通じて知られる若干の例に過ぎないが、諸役賦課・所領安堵・相論裁許など領国支配上の重要案件を通達する場合には、通常は奉行人連署奉書が用いられたと解釈してよいだろう。
 これらの奉書に連署している武田氏の奉行人は、実名のわかる人物を年代順に挙げると、逸見宗見・栄長(姓未詳)・粟屋賢家・同賢長・大塩賢惟・内藤国高・粟屋賢行・国正(姓未詳)・粟屋元勝・宗廉(姓未詳)らである。すでに前項でふれたとおり、彼らのほとんどは武田四老に数えられる家の人びとである。これらの奉書のうち、信賢のときの二例は彼の在京時のものであり、国信の時期の二通のうち、長享二年のものは近江在陣中、延徳元年の飯盛寺充てのものは在国中の発給である。元信のときは、延徳二年閏八月のものが在京中、明応九年のものは内容から在京奉行が奉じていることが明白であり、永正五年のものについてはよくわからないが、同十六年のものは在国中に出されている。元光のときの二例は、確定はできないが在国時の発給ではないかと思われる。そうしてみると、守護が在京を原則としていた元信の晩年近い時期までは、やはり在京奉行人が領国支配上に占めた役割が大きいと考えてよく、右の家臣らのほとんどはその地位にあったとみなしてよい。なかでも注目される存在は逸見宗見や粟屋賢家で、彼らは通常の奉行人の枠には入らないほどの重要な地位にいたと考えられるが、それについては前項あるいはこののちの記述に譲る。
 ただ彼らはいかなる場合にも在京奉行人であったわけではない。個々人についてみれば、京都にいる場合もあれば、時に下国していたり出陣することもあったのであり、ことに守護下国時とか出陣のさいには随従することが少なくなかったはずで、その場合には国や陣所において奉行人としての役割を果たしたのである。要するに彼らはおしなべて武田氏の奉行人を務めた重臣というべきであり、主君の在京がほぼ常態であった戦国前期には、おのずと在京奉行として機能することが多かったに過ぎない。



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