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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    二 家臣団編成
      内藤氏
 内藤氏は、守護代や小浜代官・遠敷郡司などに任じられた重臣である。内藤氏惣領家は歴代筑前守を官途としたとみられる。応仁以前、信賢期の守護代として筑前入道昌廉ならびにその子とみられる内藤筑前守が相ついで出現するが(三章二節五参照)、戦国期には、延徳三年の明通寺への陣僧催促停止を命ずる粟屋賢家奉書の充名にみえる内藤筑前(資9 明通寺文書九一号)をはじめとして、天文七年の若狭彦社上葺の修理奉行筑前守元廉(若狭彦神社文書一四号『小浜市史』社寺文書編)、弘治二年(一五五六)当時の信豊の奏者筑前守勝高(資9 萬徳寺文書六・七号)、さらに元亀二年の史料に登場する内藤筑前守(勝行か)や(資9 神宮寺文書五八号)、天正年間(一五七三〜九二)に織田信長配下の若狭衆の一員としてみえる内藤筑前など(『信長公記』巻八)、代々の動静が知られる。この筑前守系の内藤氏は遠敷郡西津天ケ城を居城としたと伝える(「若狭郡県志」)。
 別に佐渡守系の内藤氏がある。まず文明六年当時、「小浜津代官内藤佐渡入道」がいた(「政所方書」)。そのあと長享・延徳年間(一四八七〜九二)ごろ、小浜における千部経読誦を発起したという内藤佐渡守が現われる(資9 明通寺文書一〇五号)。おそらく佐渡入道と同一人かその子息であろう。この人物の後継者が五郎左衛門(のち佐渡守)国高である。彼は元信・元光のころの奉行人として活動し(同一〇二・一〇六号など)、在京が多くて三条西実隆ともしばしば交渉があったが(『実隆公記』文亀二年五月十四日条、『再昌草』二など)、大永七年の川勝寺合戦において七三歳の高齢で子とともに戦死した(『言継卿記』同年二月十三日条)。これより約四〇年後の永禄十二年に若狭を訪れた連歌師里村紹巴を招いて歓待した遠敷郡堤(津々見)の箱ケ岳城主内藤五郎左衛門尉は、間違いなくその子孫である(「紹巴天橋立紀行」)。天正十年、丹羽長秀から近江海津へ参向するよう命じられている内藤佐渡守は同一人であろう(資2 山庄家文書一号)。箱ケ岳城は佐渡守系歴代の居城と伝える(「若狭郡県志」)。
 このほかの内藤氏一族では、寛正二年(一四六一)当時の遠敷郡司内藤八郎や(三章二節五参照)、その人かもしくは彼につながる人物で同じ立場にいたと考えられる応仁年間の豊前守廉経(資9 明通寺文書六六号)、系譜上この廉経に近いと推定され、明応年間(一四九二〜一五〇一)ごろに在国奉行あるいは遠敷郡司であった八郎右衛門尉(のち加賀守)廉貞や修理亮賢高(同九三・一〇〇・一〇二・一〇三号、資2 内閣 朽木家古文書四六・四七号)などがおり、一族の多くが武田氏の重職についていたことが知られる。



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