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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    二 家臣団編成
      粟屋党歴代
図044 粟屋氏系図

図044 粟屋氏系図

 武田家臣中、逸見氏と双璧をなしたのが粟屋氏である。応仁以前に信賢の在京奉行人として重きをなした粟屋越中守(初め右京亮)繁□(一字解読不能)がいたが(三章二節五参照)、その跡を継ぎ、文明初年以降の約三〇年間、同じく在京奉行の地位にあって活動したのが右京亮(のち越中守)賢家である。彼は繁□の子と推定され、粟屋氏惣領家の当主は代々右京亮ついで越中守の官途を世襲したものと考えられる。延徳三年から翌四年にかけての将軍義材の六角攻めのさい、賢家が武田の軍勢の先陣を務めたことは先にふれたが、陣中で赤松政則が斯波義寛・武田元信を招待したとき、元信の伴衆として賢家と山県民部丞とが加わっており(『蔭凉軒日録』明応元年十月二十五日条)、彼が元信側近の有力部将であったことをうかがわせる。彼はまた明応七年に明通寺と神宮寺が千部経読誦にあたっての座次を争ったとき、糾明を遂げて「裁断」したり(資9 明通寺文書一〇四号)、同じ年に三方郡早瀬浦の小嶋網場をめぐる早瀬・久々子両浦間の相論を裁許するなどしており(資8 上野山九十九家文書二号)、武田氏の領国支配機構のなかで枢要の地位を占めていたことが明らかである。彼の没年は文亀三年(一五〇三)であり(『再昌草』三)、法名を玄要という(『大徳寺文書』四四〇号)。
 延徳二年から同四年当時、左衛門大夫国春が元信の側近におり、相国寺蔭凉軒主である亀泉集証を訪ねて、兄の所持する横画一幅の鑑定を依頼したりしているが(『蔭凉軒日録』延徳二年九月二十四日条)、これは賢家の弟であろうか。
 賢家のあと惣領家を継いだのは、後年に悦岑・笑鴎軒宗怡と称した人物と推定される(『大徳寺文書』四一七・四二七号、資2 真珠庵文書五九号)。彼の活動を跡づける史料はほとんどないが、永正五年十二月に元信が神宮寺に対して諸役を免除した袖判の奉書に、左京亮とともに連署している右京亮はこの人と推定され(資9 神宮寺文書二六号)、やはり奉行人を務めたものと思われる。翌六年十月二十七日、三条西実隆に鮭・貝蚫(鮑)などを贈った粟屋右京亮も彼である(『実隆公記』同日条)。彼は永正十二年の秋に没した(資2 真珠庵文書五四号)。これ以後二〇年ばかりの間、遠敷郡名田荘関係の史料上に名をとどめる笑鴎軒宗運は、おそらくその兄弟であろう(『大徳寺文書』四二六〜四二八号など)。
 賢家の子にもう一人左衛門尉親栄がいる(『再昌草』三)。親栄は文亀元年五月以降に三条西実隆を師とし、極めて意欲的に古典文芸に親しんだことで名を知られるが(六章四節二参照)、永正元年四月元信が隠居しようとして、自身と同様に子息の元光を補佐すべきことを依頼したというから(『実隆公記』同年四月晦日条)、元信・元光の父子二代にわたる側近の重臣として期待されていたことが知られよう。当然武将としても重きをなし、元信の丹後侵攻には武田軍の主将として出陣したが、不利な戦況のなかで永正四年六月に討死した(本章一節五参照)。
 親栄の子が孫四郎勝春で、父と同様に三条西実隆のもとに出入りし、一方元光麾下の将として、大永七年十月に西の京(『実隆公記』同年十月二十七日条)、享禄三年十一月には勝軍地蔵(同 同年十一月九日条)、天文二年六月の天文法華の乱のさいには京都妙顕寺(同 同年六月二十四・二十六日条)など、各地に転戦して生死の間をくぐりぬけたが、同四年八月にはついに戦死を遂げている(『再昌草』三五)。おそらく丹後の戦陣においてであったろう。
 悦岑(笑鴎軒宗怡)の子が右京亮元隆(初め孫三郎元泰)であり、勝春の従兄弟にあたる。惣領家を継承し、勝春とほぼ同時期に活動したが、元隆は武田氏の小浜代官として領国支配の中枢にあり、名田荘を本拠として大きな勢威を有した。当時の粟屋党の総帥として大永七年二月、川勝寺合戦を前にしての元光の京都進発には、彼が一門の周防守家長や掃部助らとともに約五〇〇騎を率いて先陣にあり(『言継卿記』同年二月十二日条)、このとき大敗して下国したあとも、前述のように同年十一月にはまた粟屋の同名ばかりで編成された八〇〇から一〇〇〇人の軍を率いて上洛し、武具も美麗に都人の目を驚かせた。一方、彼もまた父の代から接触のあった三条西実隆にしばしば和歌・連歌の指導を受けるなど(『実隆公記』『再昌草』)、上流公卿との交わりも深かった。この元隆は天文七年に主家への反乱をおこしている(本章四節一参照)。反乱後の元隆の動静は詳しくは知られないが、同十一年三月、木沢長政が三好範長・畠山稙長らと戦って敗死した河内太平寺の合戦で、長政に合力して子の孫三郎や一族の修理亮らとともに討死した右京亮は彼のことと思われる(『言継卿記』同年三月十八日条、「細川両家記」)。
写真202 三方郡国吉城跡遠望

写真202 三方郡国吉城跡遠望

 これより約二〇年後の永禄年間、武田義統から離反し、三方郡佐柿の居城国吉城に篭もっていく度も朝倉氏の攻撃に抵抗し、若狭が織田信長の支配下に入るとそのもとで若狭衆の主要メンバーとして活動したことが知られる越中守勝久は、元隆亡きあとの惣領家の継承者であったとみられるが、両者のつながりは明瞭でない。
 そのほかの粟屋一族では、応仁以前に越中守繁□や逸見宗見・同繁経とともに在京奉行を務めた下総守(はじめ左京亮)長行の系統に、戦国初期にいたって下総守(はじめ左京亮)賢行が現われる。彼は長行の子か孫とみられ、国信の奉行人であった(資9 明通寺文書八六〜八九号など)。その子と考えられるのが左京亮元勝で、永正・大永年間(一五〇四〜二八)ごろ元光の奉行人として出現する(資9 神宮寺文書三三号など)。元勝の子が同じく左京亮元行である。この人物は遠敷郡宮川新保山城(霞美ケ城)の城主で、天文十年に死去するが(『大館常興日記』同年八月記紙背文書)、それまでは幕府料所宮川保の請所代官として公用銭の収納・送進に働き(『大館常興日記』)、同八年には丹後に出陣したと思われる(同 同年七月十三日条)。
 また、元勝と同時期に周防守家長が奉行人として活動するが、彼は大永七年の川勝寺の合戦で戦死した(『言継卿記』同年二月十三日条)。家長の子が式部丞光若で、信豊の奏者として働いている(資9 神宮寺文書四六・四七号、資2 白井家文書三三号)。このほかにも粟屋苗字の者で史料に名をとどめる者は少なくなく、粟屋一族が武田家中で占めた地位が非常に大きかったことを物語っている。



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