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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    二 家臣団編成
      逸見一族
 前述したように、応仁の乱における京都内外の合戦に武田勢の主要な一角を占めていたのは逸見氏であった。逸見氏は室町・戦国期の若狭関係史料にはしばしば登場するが、なかでも駿河守と弾正忠を称する人物の活動が目立つ。各種の徴証から彼らは逸見氏の惣領家と目されるが、享禄元年(一五二八)十一月十一日の武田元光官途状で、元光が逸見弾正忠(昌経と推定される)に対して駿河守の官途を認めているところからすると(資2 反町英作氏所蔵文書二号)、逸見の嫡流は代々弾正忠ついで駿河守を称したと考えてよいと思われるので、以下この見方に立って、駿河守・弾正忠を中心に戦国期の逸見一族の動きをみておく。
 戦国初期の逸見氏の頭領と目されるのは、駿河守真正(当時は入道宗見)である。文明二年京都東山の如意ケ岳出陣にさいし「逸見以下数千人」といわれた逸見とは、間違いなく彼である。彼はこのとき信賢が前年から北白川の山上に築いた城の守将を務めたが、山科家の家司大沢重胤などは一再ならずその陣所を訪ねて談を交わしたり、あるいは情報を入手しており(『山科家礼記』同年九月十八日条ほか)、宗見が武田家中にあって枢要の地位にいたことをうかがわせる。事実彼は、嘉吉三年(一四四三)ごろから応仁年間(一四六七〜六九)にかけて、信賢の在京奉行人としてしばしば奉書に名を列ねており、文安元年(一四四四)には彼単独の奉書もみられるので(に函一五三)、当時は守護代であった可能性もある(三章二節五参照)。かつて永享十二年(一四四〇)、武田信栄が一色義貫を討ったときの様子を記す「応仁略記」の記事に、「武田が中に聞えたる辺見の弾正」と記述されている人物は、おそらくは彼であろう。そののち丹後における一色氏との戦いでは武田軍の主将として戦い、戦況不利のなかで文明六年九月に自害して果てた(本章一節五参照)。国信がこれを悼んで出家したことからも、彼がいかに恃むべき存在とされていたかが推察される(『実隆公記』同年九月十六日条)。
 勧修寺合戦で戦死した主将弾正忠繁経は、勇将であるとともに、やはり在京奉行人をも務めた信賢重臣の一人であるが(三章二節五参照)、彼はおそらく宗見の子息であって、やがては駿河守となって跡を継ぐべき人物だったのではなかろうか。
 宗見の没後、逸見氏は子の三郎国清が惣領家を継いだと考えられる。前述の見方をすれば、彼は繁経の弟ということになる。文明十五年五月、彼は醍醐妙法院の借銭に関して、亡父宗見に対する同寺の契約状により本利の弁済を求める訴訟をおこしている(「政所賦銘引付」)。また翌六月下旬に足利義政が東山山荘に移ったときには、折から和泉国に下っていた武田宗勲(国信)の「雑掌」として、主君に代わり進物を届けている(『親元日記』同年六月二十七日条)。彼は宗勲の名代を務める立場にいたのである。
 そののち元信の麾下にあって、折からの将軍義材の六角高頼討伐に従軍して近江に在陣していた明応元年(一四九二)三月、およそ四〇〇〇人といわれる六角氏の牢人衆との愛智河原における大合戦に、元信の命で安富筑後守元家の軍に加勢として加わりながら、友軍の織田敏定・浦上則宗らがわずか七、八〇〇人の軍勢で力戦するのを、なぜか山上に陣取ったまま見物していたと伝えられる逸見弾正の名がみえ(『蔭凉軒日録』同年四月朔日条)、同年九月初めには彼は草津の武田軍陣中でおこった青地某との争闘で手傷を負い、まさに討たれようとしたところを助けられたという(同 同年九月五日条、『後法興院記』同年九月八日条)。これは宗見亡きあとの逸見氏を率いた人物とみられ、おそらく三郎国清その人であろう。
 『雑事記』同二年十一月十六日条には、このとき丹波守護代の上原元秀が病み、横奪していた寺社・公家領を還付したことに関連するのか、「深草の事、逸見に仰せ付けらる」という記事がみえる。これは当時武田元信が遁世して京都にいなかったところから、代わりに在京している逸見が山城国深草の地の知行を認められたということらしい。翌々日の十八日には、元信が太秦の広隆寺辺におり、そこへ「逸見以下内者共」がことごとく罷り下り、武田家中では「青屋(粟屋賢家)一人相残るか」とみえるが、二十五日になると元信が帰京し、逸見には本所領のうちで替地が給されたという(『雑事記』同年十一月二十六日条)。逸見弾正が粟屋賢家と並んで元信側近の有力家臣であったことは、これらの記事からしても明らかである。
写真200 大飯郡高浜

写真200 大飯郡高浜

 およそ一〇年ののち、永正四年五月の丹後国阿弥陀ケ峰城(京都府宮津市)の攻防について「細川大心院記」が記すところによると、一色下山なる者の内者肥後左京亮父子の捨身の攻撃により、数多の痛手をこうむって本国若狭まで引き退いたという逸見駿河守がいるが(本章一節五参照)、これもそののちの国清とみてよかろう。やや遅れて、永正十四年の田地売券および大永五年の田地寄進状に売主・寄進者として名がみえる逸見美作守高清は(資9 明通寺文書一〇八・一一二号)、この駿河守の兄弟かもしれない。
 そのころの目立った動静としては、永正十四年に逸見の一族が丹後国守護代の延永春信と結び元信に反逆したという事件があるが(本章一節五参照)、これは逸見氏本宗を巻き込んだものではなくて、元信は同月の末に大飯郡本郷を本拠とする幕府奉公衆本郷政泰に対して逸見の守る高浜の要害を堅守すべく尽力を要請し、九月にはその協力を謝する書状を送り、使者として逸見豊前守を遣わしている(資2 本郷文書一四八・一四九号)。このころ逸見氏が高浜の城にいて、丹後勢の侵入を阻止する役割を担っていたことがわかる。
写真201 逸見昌経木像

写真201 逸見昌経木像

 降って天文七年(一五三八)、粟屋元隆が武田宗勝(元光)・信豊に叛いたとき、「高浜逸見方陰謀の義あり」と伝えられる(資9 羽賀寺文書二七号)。しかし当主駿河守昌経は、「拙者存分彦次郎(信豊)に対し更に悪心非ず候」と述べており(資2 京大 狩野蒐集文書二号)、彼自身は動かなかったか、もしくは翻意したらしい。このあと天文二十年以前に昌経は出家して駿河入道宗全と称したと思われ、このころ信豊の奏者としての役割を果たしている(資2 白井家文書二八・六二号)。天文二十年九月ごろから始まった丹後国加佐郡の陣にさいし、翌二十一年春に出陣した信豊はしばらく高浜逸見の城に入っており(資9 羽賀寺文書二七号)、宗全が信豊の領袖として重要な存在だったことをうかがわせる。
 永禄年間(一五五八〜七〇)以後に史料に散見する逸見駿河守は宗全のことと思われるが、永禄元年に信豊・義統父子が対立したときは義統の側に立ったらしく、義統は約一か月高浜にいた(同前)。しかしこの主家の内紛に絡んで、彼はほどなく義統に叛くことになる(本章四節二参照)。後年織田信長の手に属してからも、天正九年(一五八一)四月に病死するまで、若州衆の筆頭格としての彼の地位は変わらなかった(『信長公記』巻八)。



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