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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    二 家臣団編成
      戦国期の武田家臣団
 戦国の諸大名にとって、たび重なる戦乱に勝利し領国支配を安定させるためには、強力な家臣団を抱え、それを巧みに編成し掌握することが必須の課題であった。
 応仁の乱の初期、文明二年(一四七〇)六月以降、武田氏の軍勢が京都東山の如意ケ岳に布陣したときの様子を、山科家家司大沢重胤は「武田大膳大夫(信賢)、同治部少輔(国信)、逸見以下数千人、如意寺嶽山陣候也」と記している(『山科家礼記』同年九月十三日条)。はなはだ漠然とした数字で誇張もあろうが、武田勢の大軍であった様子はしのばれる。
 この年七月十九日、西軍大内政弘の軍が信賢の部将逸見弾正忠繁経を大将とする武田勢の陣所山科の勧修寺を攻撃した。繁経が率いる武田勢は、ここで「敵(西軍)第一の道也」と目された山科の通路の確保にあたっていたが、戦い利あらず、繁経は奮戦のあげく自害し、その弟も含めて二〇〇人ばかりが戦死して、「東方迷惑事也」とみえている(『雑事記』同年七月二十日条、『私要鈔』同年七月二十一日条など)。繁経とその麾下の軍勢が東軍の重要な戦力であったことがうかがわれる。
 降って延徳三年(一四九一)八月二十七日、将軍足利義材が近江の六角高頼を討つために、斯波・一色・武田らの軍勢を率いて京都を進発したとき、後陣を務めた武田軍の先陣は粟屋越中守賢家とその「一家衆」三五騎であった(『蔭凉軒日録』同日条)。
 大永七年(一五二七)二月、前管領細川高国に敵対する三好勝長・柳本賢治らの軍勢を迎撃するため、将軍義晴・高国側の武田元光らが京都を進発したとき、これを見物した山科言継は「粟屋右京助、同掃部助、同周防守、五百人計り立ち候、其の次武田大膳大夫立ち候、千五百人計り、何も何も見事共也」と記している(『言継卿記』同年二月十二日条)。ここでも粟屋の一党が武田軍の先陣を務めたのである。このとき桂川の東、西七条川勝寺付近での激戦に武田軍は大敗北を喫し、「若州之輩百十余人うたれ候由申し候、手をひ(負)数ヲ知らず候、粟屋周防守、同掃部、同薩摩守、其の外粟屋名字之者九人、中村修理、内藤佐渡守父子、同名新九郎、くまかへ(熊谷)監物、以上四十六人打死と云々」というような深刻な打撃をこうむった(同 同年二月十三日条)。そのため高国・元光らは義晴を奉じて近江へ没落するありさまとなったが、十月になると態勢を立て直した義晴の軍勢は再び入京し、月半ばには元光の家臣粟屋孫四郎勝春が上洛して参陣しており(『実隆公記』同年十月十五日条)、翌十一月三日には同じく粟屋右京亮元隆が「同名計り」八〇〇から一〇〇〇人を引き連れて上洛し、見物した鷲尾隆康はその武具美麗なるありさまを記すとともに、「当春多分同名討死、然りと雖も又上洛せしむ、奇特也、武勇之専一と謂うべき者歟」と述べている(「二水記」、『言継卿記』同日条)。
 戦国の前半期、京都やその近辺での合戦に幕府の藩屏として活動した武田軍団は、武田氏旗本の軍を核としながら、逸見・粟屋をはじめとする有力家臣が同族を中心に組織するほぼ数百程度の単位部隊の集合体として編成されていたこと、またそれらの部隊が戦略上重要な拠点の攻撃や防禦をゆだねられる存在であったことなどが、これらの徴証から明らかになる。有力な家臣は、前述のとおり「一家衆」あるいは「同名」とよばれる同族の武士を統率するとともに、「不同名」の被官人を「家中」として組織していた。
 戦国も末期の永禄十年(一五六七)七月、武田義統の弟武田信方(宮川殿)が叛旗を翻したとき、白井光胤・勝胤父子ら信方の「年寄中」が相談し、「宮川御家中」を引き退くという挙に出ている(資2 白井家文書四八・四九号)。これは武田同族でいわゆる四老クラスの場合であるから、白井氏のごとき有力家臣が年寄として家中に加わっていたのであるが、その白井氏を含めて他の家臣の場合も、規模の差はともかく組織の態様は同じである。元亀二年(一五七一)十月八日の神宮寺領諸成物目録には、同寺領から方々へ銭納される成物が、内藤筑前守や粟屋越中守勝久など主だった武田家臣のほかに、「内藤筑前守家中」たる小嶋与吉・松宮新三郎・温科弥五郎や「熊谷家中」の南部孫三郎らのもとへ出されていたことが記されているのはその一徴証といえる(資9 神宮寺文書五八号)。
 このような家臣団の組織はそのまま戦時の部隊編成に移行したのであり、例えば永正十四年(一五一七)十月十一日の丹後国竹野郡吉沢城前での合戦にさいして戦功をたてた白井清胤に対して武田元信が与えた感状には、「同名ならびに被官人打太刀、矢疵を被るの条粉骨に候」とある(資2 白井家文書一四号)。同名と被官人らが一丸となって戦っていた状況がうかがわれる。時に応じてこれに「与力」の衆が加わった(同三五号)。こうした武田氏家臣団の編成態様はいわゆる寄親・寄子制そのものであり、他の戦国諸大名の場合と大差はなかったと考えてよい。
 戦国末期ごろ、武田氏家臣の面々は「卅六人之衆」などとよばれているが(『織田信長文書の研究』二二二号)、その主なものを列挙すると、逸見・粟屋・内藤・熊谷・山県・白井・温科・畑田・松宮・寺井・香川・大野・久村・山東・沼田・清水・綿貫・大塩・吉田・西村・八幡林・武藤・南部その他である。以下には、このうち武田氏同族の一家とともに「武田ノ四老」に数えられた逸見・粟屋・内藤の三氏について、戦国期におけるそれぞれの動静を把握しておきたい。



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