前述したように武田氏は、元信の晩年にいたって、恒常的な居所を京都から領国若狭へ移したとみられるが、これは次の元光以後もそのまま継続した。終始親幕府的態度を保持した武田氏がこうして在国を主とする体制に変わったことは、室町幕府の守護体制から本来的性格が薄れたことを意味しており注目すべきことといわねばならないが、それは同時に武田氏自身の領国支配にとっても大きな画期であったとみなされる。
段銭・役夫工米の免除や荘園に対する押妨の停止などを命ずる室町幕府奉行人奉書が武田氏に対して出された事例は、残存文書をみる限り元信期の後半以後は目立って少なくなり、信豊の時期まで含めて三点か四点ほどしか見当たらなくなってしまう。これはそれ以前と比較した場合の明瞭な変化であり、幕府の守護を通じての地方支配が後退したことを表わしているとみてよいが、あたかもこれと符節を合わせたように、ほぼ同時期すなわち文亀・永正年間(一五〇一〜二一)以降、所職・所領の安堵、知行の充行、諸役免除などを内容とする武田氏当主の判物や書状が増加する。同じ時期から、領内の土地(あるいは土地からの得分)の売買にともなう武田氏の買地安堵(買主の権利の保証)の事例も急増する。これらは領国に対する武田氏自身の支配権がうち立てられたことを示すものであり、武田氏はこの時期にいたって守護大名から戦国大名への転化を遂げたとみることができよう。 |