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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    一 領国支配の強化
      守護大名から戦国大名へ
 前述したように武田氏は、元信の晩年にいたって、恒常的な居所を京都から領国若狭へ移したとみられるが、これは次の元光以後もそのまま継続した。終始親幕府的態度を保持した武田氏がこうして在国を主とする体制に変わったことは、室町幕府の守護体制から本来的性格が薄れたことを意味しており注目すべきことといわねばならないが、それは同時に武田氏自身の領国支配にとっても大きな画期であったとみなされる。
 段銭・役夫工米の免除や荘園に対する押妨の停止などを命ずる室町幕府奉行人奉書が武田氏に対して出された事例は、残存文書をみる限り元信期の後半以後は目立って少なくなり、信豊の時期まで含めて三点か四点ほどしか見当たらなくなってしまう。これはそれ以前と比較した場合の明瞭な変化であり、幕府の守護を通じての地方支配が後退したことを表わしているとみてよいが、あたかもこれと符節を合わせたように、ほぼ同時期すなわち文亀・永正年間(一五〇一〜二一)以降、所職・所領の安堵、知行の充行、諸役免除などを内容とする武田氏当主の判物や書状が増加する。同じ時期から、領内の土地(あるいは土地からの得分)の売買にともなう武田氏の買地安堵(買主の権利の保証)の事例も急増する。これらは領国に対する武田氏自身の支配権がうち立てられたことを示すものであり、武田氏はこの時期にいたって守護大名から戦国大名への転化を遂げたとみることができよう。
写真199 武田元光画像

写真199 武田元光画像

 「若狭郡県志」古跡部の「武田城址」の項によると、大永二年武田元光が後瀬山上に城を築いたと伝え、また今の空印寺境内の地にあった長源寺を津田に移し、その跡に館舎を構えたという(五章三節一参照)。その年次に信を置くなら、元信の死去は前年の暮であるから、すでにその在世中から築城が始まっていた可能性も十分考えられる。いずれにせよ、以後武田氏はこの城と館舎を本拠とするのであって、城は日本海側屈指の港町小浜を城下町としそれを眼下に見下ろす要害であり、若狭国主の居城として格好のものであった。この築城が武田氏の在国体制、戦国大名への転化と不可分の関係にあったことはいうまでもないであろう。



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