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 第四章 戦国大名の領国支配
   第三節 武田氏の領国支配
    一 領国支配の強化
      在京時代の武田氏の動向
 室町期の守護大名は、その多くが在京して将軍の御所の近くに館を構え、幕府政治に参画し、麾下に軍勢を擁して将軍の護衛に任ずる態勢にあり、反乱や一揆にさいしては出動して鎮圧にあたるのが常であった。したがって彼らの領国には守護代や国奉行以下の家臣が置かれ、守護に代わって国内の統治を行なっていた。
図43 武田氏系図

図43 武田氏系図

 若狭武田氏の場合も例外ではない。若狭の守護職は信栄以来、信賢・国信・元信・元光・信豊・義統と継承されたが、このうち前半期にあたる元信期の中ごろまでは、特別に必要な場合以外は在京していた。信賢は応仁の乱中は弟国信とともに京都内外に転戦し(四章一節一・五参照)、応仁元年(一四六七)五月ごろ、小浜近辺を占拠した一色氏の軍を退けるためいっとき若狭へ下向したと思われるが(「応仁別記」)、それ以外は在京していたとみなされ、文明三年六月の信賢の死去にともない跡を継承した国信も、京都の戦乱が終結した翌年の文明十年暮に湯治のため下国するまでは(『親元日記』同年十二月十日条)、終始在京してほとんど戦乱の渦中にあった。そののちも史料のうえで知りうるかぎりでは、国信は同十八年八月前後に在国しているが(「長興宿記」同年八月二十七日条)、翌長享元年(一四八七)に将軍足利義尚が六角高頼討伐のため近江の鈎に出陣したときには御供衆として参陣し、同三年三月義尚が在陣中に死去すると直後に下国したものの、翌延徳二年には若狭で没しており(『雑事記』長享三年四月十二日・延徳二年六月二十四日条)、在国の機会は多くはなかったようである。
 子の元信は国信死後もずっと京都におり、延徳三年八月に将軍義材がやはり六角討伐に出陣するとこれに従軍し(『蔭凉軒日録』同年八月二十七日条、『雑事記』同年八月二十七日条)、続いて明応二年二月には義材の畠山基家攻撃にも従って河内に出動した(『雑事記』同年二月二十四日条)。同年四月、細川政元が足利清晃(義遐・義高・義澄)を新将軍に擁立すると新将軍側に参向し、引き続き在京して同五年正月には禁中四足門の警護にあたり(『実隆公記』同年正月十六日条)、翌六年九月京都に土一揆がおこったときも禁裏を警護した(『実隆公記』紙背文書)。同八年に京都が騒擾に陥ったさいには、「武田一人都下に在り」といわれるような状態で鎮圧に働いており(『鹿苑日録』明応九年正月十七日条)、文亀元年に義高が山城国真木嶋(槙島)へ出かけたときには留守を託され(『実隆公記』同年六月十六日条)、翌二年九月には将軍義澄の相伴衆になっている(『後法興院記』同年九月十一日条)。終始幕府の藩屏として京都にあって活動していたのである。
 永正元年十二月には彼は下国するが(同 同年十二月九日条)、これは丹後の争乱に介入しての出兵準備のためであったとみられる。永正四年にかけての丹後の陣は、同年六月元信を支援していた細川政元が養子澄之に殺された政変も大きく影響して結局惨憺たる敗北に終わり(本章一節五参照)、兵を退いた元信は八月になってまた上洛した(『多聞院日記』同年八月二十七日条)。翌五年二月には、義澄が前将軍義材の入洛を防ぐため元信らの率兵上京を促しているから(「御内書案」)、そのころにはまた若狭にいたとみられる。以後管領家細川氏内部の争いが続き、義材(改名して義尹)が義澄を追って将軍に返り咲くなど政局が安定を欠く状況のなかで、元信がどういう動きをしていたかはよくわからないが、義尹・細川高国(管領)側の一翼を担って京都を中心に活動していた可能性が大きいかと推定される。しかし永正十一年の暮には三条西実隆に後瀬山の椎を詠み込んだ返歌を送っているので(『再昌草』)、当時は若狭にいたことがわかる。のちに元信は「暮年京師を去って若州に在り」といわれており(「梅渓集」)、おそらく永正年間の半ばころ(一五一〇年代初め)から本拠を若狭に移したのではないかと思われる。永正十四年には、丹後国守護一色氏の家督争いに絡む同国守護代延永春信の乱によって丹後へ出陣し、春信ならびに彼と結んだ自身の被官逸見某の若狭侵攻という事態も招いたが(本章一節五参照)、同十六年十一月になると出家して子の元光に家督を譲った彼は、大永元年(一五二一)暮に若狭で死んだ。



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