若狭国内の諸荘園に対する守護武田氏の半済が、荘園領主側の要請を受けた幕府のたびたびの停止命令を無視して継続されたことは前述のとおりである(三章二節六参照)。戦国期に入ってももとより変化はなく、半済は完全に常態化したばかりか、守護は進んで荘園の下地さえ押領するにいたった。
遠敷郡国富荘の場合、文明十一年(一四七九)八月の壬生雅久申状草案に、「りやうけしき(領家職)一円事、きうとう(旧冬)ニ至て度々御成敗之処、守護方乱中被官人のきうおん(給恩)□□□□て猶わうりや(押領)□□」と記されているように(『壬生家文書』四一五号)、応仁の乱の途中からは全く守護に押領され、領家の直務支配は不可能で、半済以後一〇〇石に足りなくなっていた年貢がいっそう減少して四〇余石しか入らなくなっていた。強引な守護請の実施であった。領家としてはせめて半済の状態にまで戻そうとし、さらにあわよくば一円支配の回復をもくろんで、広沢次郎五郎や結城七郎などの人物に尽力を頼み、成功したときには二〇石五年分あるいは三〇石五年分などを報酬として提供することを申し出たりしているが、そうした画策も実らなかった(同四二八・五一八号)。延徳二年(一四九〇)・永正十六年(一五一九)と守護の違乱停止を命ずる幕府奉行人奉書が出されているが(同三五〇・三五二号)、それは事態が少しも変わらなかったことを物語っている。
大徳寺塔頭徳禅寺領の遠敷郡名田荘四か村(知見村・井上村・田村・下村)についても、守護が「事を乱世に寄せて押妨」したといわれ、文明八年四月にその停止を命ずる幕府奉行人奉書が出されている(『大徳寺文書』四〇二号)。その後の経過は十分把握できないが、四〇年ほどあとの永正年間(一五〇四〜二一)になると、この地は武田氏の重臣粟屋孫三郎元泰(のち右京亮元隆)の請所となり、年間五〇〇疋(五貫文)の公用銭を上納するようになっているから(資2 真珠庵文書五六〜七七号)、応仁以後荘園領主の直務支配は回復できなかったと考えられる。
文明十八年九月の前内大臣中院通秀の日記には、若狭にあった仁和寺真光院領(三方郡藍田荘か)について、守護がいったん「相違なく渡し進むべし」と約束したため、使者が守護方の雑掌寺井氏のもとへ出向いて謝意を表わしたところ、寺井は「一円の事は覚悟に及ばず、半済の事は渡し申すべし」と述べたということが記されている(『十輪院内府記』同年九月二十六・二十八日条)。ここでももともと半済が行なわれていたうえに、応仁の乱当時は荘園全体を守護が押領してしまっており、荘園領主側の返還要求によって守護方はようやくそれに応じたものの、半済分だけしか渡そうとしなかったという事情を知ることができる。 |