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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     五 朝倉氏の農民支配
      指出
 朝倉氏が寺庵や給人の知行地について売却地の取戻しを含めて安堵あるいは充行いをする場合には、現地の寺庵・給人・百姓に対してこの知行地の耕地・作人・年貢高などを記した指出を提出させることが広くみられる(資5 劒神社文書二八・三八・三九・六一号、資7 白山神社文書一〇号、資4 大連三郎左衛門家文書六号、資5 瓜生守邦家文書二二号)。先述の玉蔵坊のように知行地がいくつかの分数分割名からなっている場合が多かったから、その全体を把握するには現地からの指出によるほかなかったであろう。朝倉氏がこうした指出を求めたということは、検地などによって独自に耕地や作人を確定することができなかったことを示し、朝倉氏領国の農民支配が保守的な性格をもっていたことを物語る。
 指出は現地より差し出す一種の申告書であるが、「指出これを調え、年貢諸済物等きっと沙汰すべきものなり」と命じられているから、農民たちが提出する指出は年貢納入についての同意書でもあった。朝倉氏滅亡直後の例であるが、給地から「理不尽ニ」指出を取ろうとした代官が訴えられているのは、指出が年貢納入同意書でもあったことをよく示している(資5 中道院文書六号)。若狭遠敷郡上吉田村において地下人たちが新たに下ってきた代官に対し指出を提出せず逃散したとあるように、指出を拒否することは支配を拒否することでもあった(「守光公記」永正十一年正月二十七日条)。それと同時に指出は領主側の恣意的支配をも制限した。今立郡水落神明社領の野畠について、この地の朝倉氏代官が裏判で保証した「地子銭之注文」(地子銭の注進文書)に記載されている作人を、地子銭未納もないのに神明社が召し放つことは不当であるとされている(資5 瓜生守邦家文書一九号)。この「注文」とは享禄二年の文書にみえる野畠の「指出」と考えてよい(同二二号)。
写真196 江良浦刀祢百姓申状案(刀根春次郎家文書)

写真196 江良浦刀祢百姓申状案(刀根春次郎家文書)

 指出が領主と百姓間の契約を示す文書であったことは、大永七年正月の敦賀郡江良浦の例から知ることができる(資8 刀根春次郎家文書四〜六号)。気比社執当がもっていたと考えられる江良浦の地頭職を買得した天野与一は浦人たちに対し、正月十六日が吉日であるので指出を提出するよう命じた。浦人たちは自分たちに何の連絡もなく地頭職が売買されたことを不満に思っていたが、ともかく先例どおりの指出を記して提出した。それに対し新地頭の天野氏は、この指出には自分が先地頭より聞いている以上のことが記してあるとして拒否したのである。この新地頭の拒否に浦人たちは反発し、先地頭に対し天野氏への売却を止めるよう訴えている。正月吉日の日付をもつこのときの江良浦指出には、1浦人が納入する地子銭・公事物、2地頭へ浦人が奉仕する夫役とそれに対し地頭の側より支給される酒食と米銭、以上の二点が記されている。特に2の地頭より浦人に支給される酒食・米銭の記事は詳細であるが、この部分を新地頭は拒否したものと思われる。この例から、新地頭は江良浦よりの収納の内容を先地頭から伝え聞いていたが、浦人に指出を提出させることにより年貢納入についての浦人の同意を得ようとしたことを知ることができる。それに対し浦人は指出を単なる納税申告書とは考えず、浦人に対する地頭の義務をも明らかにすべき文書と位置づけており、この意味で指出は地頭と浦人の双務的契約を示す文書なのである。
 指出が吉日に提出を求められているように、指出提出は地頭と浦人がそれぞれの利害を主張して争う場というより、両者とも先例を尊重し合意する儀礼の場として一般的には考えられていた。そうした先例を無視するものについては百姓は古くから強い抵抗を示してきたが、戦国期においては先例を守らせるための慣行的制度として指出が機能していたのである。朝倉氏が検地などを強行して在地を掌握したという事例は今のところ知られないので、指出によらざるをえない朝倉氏の在地支配は、同時に在地農民の主張もある程度認めることになったものと思われる。



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