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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     五 朝倉氏の農民支配
      名代と「あつかい」
 名主が負担する公事の大部分は銭納化されていたが、夫役とりわけ戦国期に強化された陣夫は現夫で負担しなければならなかった。名の内徳知行者である給人や寺庵は作人にこれら夫役を負担させたが、玉蔵坊が天文二年に夫役を勤めた作人に銭を与えているように(同三号)、夫役負担者には米銭を支給しなければならなかった。こうした臨時的負担を円滑に処理し内徳を確保するために、名主の代官である名代が置かれるようになる。享禄元年(一五二八)今立郡山本荘久恒名について、内徳知行者である織田寺は雨夜新左衛門を名代職に任命し、本役・夫役は朝倉氏へ、内徳分は織田寺へそれぞれ納入するという書違(契約書)を交わしている(資5 劒神社文書二五号)。永正七年(一五一〇)の西福寺清観院領目録にみえる敦賀郡嶋郷徳円名においては、分米五七石余のうち名代は四石の給分と五石の公事免(夫役代)を認められており(資8 西福寺文書一六六号)、今立郡池田各間郷東俣の宗光名においても、三石の名代給と七石一斗の公事免がみられる(資6 飯田広助家文書二号)。名代は契約によって任命されるのが本来の姿であろうが、この宗光名の名代職は大永五年に親から子へと譲られており、世襲的な権利となっていた(同一号)。
 土豪や有力農民はこの名代に任命されることを望んだ。弘治元年(一五五五)に朝倉義景は伊勢帯刀左衛門尉と溝江左馬允が坂井郡竜沢寺を偽り、ほしいままに「名職」を得ているとして両人を改易しているが、これは名代職のことと考えてよく、竜沢寺に伝わっていた「諸名代之一行」(契約書)数通の多くは土豪たちの強引な名代職獲得の結果提出された文書であろうと思われる(資4 龍澤寺文書三六・三七号)。先に玉蔵坊領の内徳が全収納分の三割で予想以上に少ないことをみたが、臨時的負担が多くなると名代は本役・内徳の納入が困難となって未進を続け、名田を売却して上表(名代職の辞退)する場合が極めて多かった(資5 劒神社文書三七・三九号、資8 西福寺文書一七三・一九五・二〇一・二二〇号)。このような場合には内徳知行者は朝倉氏に訴え、名代売却地を勘落(没収)する権限を認められたうえで安堵されている。
 名代ほど制度として確立していないが、室町期の敦賀郡においては作職と称せられる職をもつ者も名代と同じような機能を果たしていた。西福寺が寺領である是時名の作職を楽音寺の門前百姓に預けたところ、楽音寺は地頭に納入する加徴米などの雑米負担のために西福寺納入分を減らし、自分勝手な振舞をしたという(資8 西福寺文書一一六号)。文安二年(一四四五)に西福寺浄鎮が寺領国重名田地について、誰が望もうとも決して作職を預けてはならないと置文に記しているのは、作職のもつ名代のような性格を警戒しているからである(同一一四号)。戦国期になると、作人から分米・分銭を徴収し、本役・内徳をそれぞれへ納入し、賦課された夫役を勤めるなどの役を果たすことを「扱」「あつかい」と称しており(資5 山岸長家文書七・一三号、資6 鵜甘神社原神主家文書二一号)、足羽郡祥雲寺領においては「扱」と「直納」が対比されている(資3 慶松勝三家文書四号)。



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