目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    四 家臣団編成
      目録安堵
 家臣や寺社は、それぞれの本領地と買得地を書き上げた目録を朝倉氏もしくは郡司に提出し安堵を受けた。ただし文亀元年(一五〇一)朝倉貞景が安堵した南条郡杣山荘内の洞春寺買得地は、このとき以前にこの地の国人である瓜生氏によって安堵されていたことが知られるから、初めは周辺国人の安堵を受けていたものが朝倉氏に集中されるようになったことがわかる(資6 藤木太兵衛家文書二号)。目録にははその末尾に、他人の給地、現在知行していない土地、他人と係争中でまだ裁決の下っていない土地は含まれていないことが、安堵を受けようとする者によって誓約されている。他の戦国大名でもみられるように朝倉氏のもとでも給地の売買は原則として禁止されていたことがわかるが、実際の目録には他人の給地を買得したことを記したうえで安堵を願い、朝倉氏から認められている場合が多い。なかには給地を売却するにあたり、この地は朝倉氏の安堵を受けている素性の正しい地であるので安心されたいと記している売券もある(資2 松雲公二九号)。
 このような目録安堵によって朝倉氏から保証された給地は「御判之地」とされ、特別の保護を受けた。例えばこの給地内の土地を百姓が無断で売却したときは取り戻すことができた(資4 滝谷寺文書一七号)。先に跡給与の例として挙げた斎藤与五郎の給地が売却されていたことに対し、朝倉孝景はこの地は朝倉氏景が安堵した目録に載せられている地であることを理由に、ことごとく没収すべきことを命じている(資2 松雲公一八号)。こうした事例は寺社領について多く認められるが、さらに給人自らが売却した給地についても取戻しが認められている(資3 片岡五郎兵衛家文書三号)。
写真194 岩本連満所々買得目録(木下喜蔵家文書)

写真194 岩本連満所々買得目録(木下喜蔵家文書)

 朝倉氏は戦国大名となって以来、たえず在地有力者に対してその買得地を目録によって安堵することにより、彼らを給人として掌握し、軍事力を拡大していったものと考えられる。こうした在地性の強い給人の買得地安堵目録として、元亀四年四月の今立郡庄境の木津宗久のものと、同年六月の丹生郡田中郷の岩本連満のものが現在伝えられている(資5 木津靖家文書一号、木下喜蔵家文書一号『福井県史研究』一〇)。この二つの例はいずれも織田信長との決戦を目前にした時期であることから、それまで参陣はしていても直接朝倉氏から安堵を受けることのなかった地侍たちが、対信長総力戦のために朝倉氏に掌握されていったことを示している。



目次へ  前ページへ  次ページへ