目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    四 家臣団編成
      知行制
 本来、主人と家臣の主従関係は情緒的な性格をもっており、したがって主人から与えられる給地の量に応じて奉公をするという観念は弱かった。しかし戦国争乱の深化とともに、大名は軍勢を確保する必要から、与えた給地に見合う軍勢数を家臣に求めるようになり、そのために家臣の知行する所領をできる限り統一的な基準で表示するようになった。これを知行制といい、家臣の知行地を銭という統一的な基準で数量化する貫高制はその典型である。それでは朝倉氏の知行制はどのようになっていたであろうか。
 敦賀郡司朝倉教景の語ったことをまとめた「朝倉宗滴話記」によれば、朝倉英林孝景は給地を与えるとき「誰々が跡々」(先知行者跡分)とのみ表示したといい、貫高制のように給地を数量化して与えると、「侍の高下相見へ候て曲なく候」という理由、すなわち給地を数量化すると家臣に序列がついたようで好ましくないとしたという。事実、永正十一年に家臣斎藤与五郎が安堵された給地は「庄境之四郎左衛門跡」「小礒部村内正賢跡」などと記されている(資2 松雲公一八号)。
 しかし、実際に給地を与える場合には給地高を無視していたわけではない。永正四年の一向一揆を退けたのちの大野郡では、忠節のあった者にとりあえず五石宛を給与したとある(資7 小嶋吉右衛門家文書二号)。さらに天文十四年(一五四五)に吉田郡志比荘下郷の闕所分のうちから一〇貫文を給与するときには、この一〇貫文を負担すべき作職保持者の注文(注進文書)が作られている(資4 永平寺文書一六号)。



目次へ  前ページへ  次ページへ