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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    四 家臣団編成
      国衆
写真193 一乗谷古絵図

写真193 一乗谷古絵図

 朝倉氏が支配する領国内には、国人衆の流れをくむ在地性の強い土豪層が各地に割拠していた。その主なものを列挙すると、坂井郡では堀江氏をはじめ武曾・深町・黒坂氏、足羽郡では山内氏、今立・丹生郡では真柄・千秋・氏家・雨夜・池田の諸氏であろう。これらの諸氏は自立性が強く、朝倉氏にどこまで臣従していたかは必ずしも明らかではない。ただ、「景」を冠した実名をもつ国衆は朝倉氏への臣従の強さをうかがわせる。次に軍役について「朝倉始末記」をもとに検討すると、永正三年(一五〇六)七月越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の高木口で迎撃した朝倉方武将名や、弘治元年七月の朝倉宗滴を大将とする加州出兵軍のなかには、朝倉同名衆・内衆とともに堀江・武曾・深町・黒坂など坂井郡の国衆の名がみえる。これは加賀一向一揆の侵攻に絶えず悩まされているという共通の利害関係から当然のことと思われるが、そのほかの朝倉方の対外出兵には特に国衆の名はみえない。ただし池田氏のように、元亀三年(一五七二)の朝倉軍の江北出陣に従軍している事実から、国衆の軍勢は朝倉同名衆などに配属されて出陣したものであろう。
 ここで代表的な国衆の堀江・池田両氏について概観しておこう。長禄合戦でいったん滅亡した坂井郡の有力国人層の堀江氏は、そののち朝倉方に属した堀江庶流が石見家を興したものと考えられ、一乗谷内にも屋敷をもち(「一乗谷古絵図」)、坂井郡三国湊の舟奉行も勤めるなど、朝倉氏との臣従関係をうかがわせる代表的国衆である。しかし結局は永禄十年に加賀の一向一揆と結んで反乱をおこし加賀に没落した。今立郡池田荘を支配していた池田氏の祖である勘解由左衛門尉久時は、守護斯波氏の代に府中在住の小守護代の一人であったが、朝倉氏の越前平定には従わず西隣する鞍谷氏と主従関係を結び、久時・時忠を経て景明のときに朝倉孝景に臣従したらしい。しかし元亀三年に江北の浅井氏救援のため出兵した朝倉義景に従軍した池田隼人助は、織田信長に内通しようとしたことが発覚し陣中で斬首され、その遺児二人も越前から呼び出されて斬首され池田氏は滅亡した(三章三節三参照)。



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