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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     三 領国支配機構
      朝倉氏の財政基盤
 宇野久重が朝倉氏景から南条郡塚原荘の代官に補任され、年貢米のうち二〇〇石余を下されたとあるのは(「朝倉孝景之御代家士戦功書付」)、塚原荘が朝倉氏の直轄地の一つであったからであろう。朝倉氏財政を支えるこうした直轄地はかなり存在したと思われるが、具体的な内容は未詳といわざるをえない。興福寺大乗院に納めるべき坂井郡鶴丸三ケ浦の本役は、永禄九年まで安嶋殿(堀江氏か)が負担していたが、永禄十年以降は朝倉氏代官の養善院・中村三郎兵衛に改替され、同じく堀江兵庫助の関郷本役も小河三郎兵衛尉・中村甚助の両代官に改替されているのは(「河口荘勘定帳」)、永禄十年の堀江氏の乱後、その闕所地を朝倉氏が没収したためと思われ、これも直轄地の一種であろう。
 元来、朝廷・幕府や荘園領主が賦課していた夫役・段銭・棟別銭も、今や朝倉氏の保護援助がなければ徴収不能であったが、一方朝倉氏独自の段銭や棟別銭の徴収も行なわれたらしい。朝倉氏の段銭は府中奉行人が段銭奉行となって徴収した。永禄六年に府中段銭奉行の青木景忠は敦賀郡善妙寺領の能善名段銭につき、河成地となっても規定の段銭額は免除されず、残り分の耕地から「盛増」して負担すべきことが国中に命令されていると述べており、河成地などを理由に段銭負担を軽減しようとする給人の動向に対処している(資8 善妙寺文書一五号)。こののち青木景忠は、善妙寺負担分は他の給人分と区別して「御帳」に記載したことを伝えており、府中段銭奉行は耕地および給人ごとに記載された段銭台帳をもっていたことがわかる(同一七号)。
写真191 朝倉氏府中奉行人連署棟別銭調符(御前神社文書)

写真191 朝倉氏府中奉行人連署棟別銭調符(御前神社文書)

 棟別銭とはあらかじめ負担に堪えうる家数を掌握しておき、これに対して銭を課すもので、享禄四年には足羽郡大町村真証寺の門前百姓に対して「守護夫・同棟別銭」が課せられていたことがわかる(資8 西福寺文書二一〇号)。朝倉氏一乗谷当主の棟別銭賦課の例としては、天文二十三年から元亀三年まで三例知られるが、それらはいずれも府中奉行人を通じて課され、段銭と違って徴収の名目が「御急用」「公方様御祈料」や近江出兵の「兵粮料」であると記されており、臨時的な性格をもっていたことが推測される(資4 御前神社文書三・五号、大連三郎左衛門家文書二号)。なお、段銭・棟別銭とも朝倉氏一乗谷当主が府中奉行人を通じて徴収した対象地は越前の敦賀・大野両郡を除く地であった。



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